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(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎
・ ナイスハート基金を訪ねて
JR山手線の浜松町駅で下車し、旧芝離宮に沿って歩く。かつての広い庭園が保存されており、東京砂漠とさえ言われている都内において、こうした緑の多い場所に来るとほっとする。駅の改札を出てから5分ほど直進すると首都高速に突き当たり、そこを右折してしばらく歩くと目的のナイスハート基金が入っている建物に到着した。受け付けで階を訊ねてエレベーターに乗る。
「いらっしゃい!」
事務所に入ると、明るい声で槇ひさ恵事務局長が迎えてくれた。日本ボランティア学会が主催するある研究会で槇さんと知り合いとなり、障害者のために国内だけでなくモンゴルやタイなどでも幅広く活動しているNGOとのことで、ぜひ一度取材したいと思い初対面のときにお願いをしてあった。槇さんは、13年の間というもの(社)日本青年奉仕協会(JYVA)でボランティア活動推進にかかわって、国内外の草の根活動を訪ねてまわり、1992年から現在のナイスハート基金で活動するようになったとのことであった。
そのときもらった「完全参加と平等」と表紙に書いてあるナイスハート基金のパンフレットには、次のように概要をまとめてある。正式な名称は、財団法人国際障害者年記念ナイスハート基金である。
「ナイスハート基金は、国際障害者年の趣旨を踏まえ、障害者とのふれあいを通じて、青少年の心を育み、豊かな人間性を涵養する"ナイスハートの輪"を全国に広めることにより、次代を担う青少年の健全育成に寄与し、併せて障害者福祉の増進を図ることを目的として、1982年8月総理府の許可を得て設立されました」
寄付行為の文書では、第2条の目的の文中にあるナイスハートの後にカッコして心のふれあいと注釈し、第3条の事業では以下の5点をあげている。
・ 障害者と青少年の心のふれあいの輪を広げるためのスポーツ広場、音楽広場、芸術広場等各種広場「ナイスハートふれあいの広場」の開催
・ 青少年障害者ボランティアグループの育成及び援助
・ 青少年障害者ボランティアグループへの障害者情報の提供
・ 機関誌「ナイスハート」の発行
・ その他この法人の目的達成に必要な事業
こぎれいに片付いた事務所の壁には、取り組みのポスターやモンゴルの土産らしきものなどが飾ってある。奥のテーブルで槇さんから話を聞く。
・ ナイスハート基金の発足の頃は
まずはナイスハート基金がどのようにして設立し、これまでの約20年の間にどんなことをしてきたのかたずねた。
「1981年が国連の定めた国際障害者年でして、その1年ほどまえから総理府のなかに障害者対策室ができていました。そこでは民間の労組や企業などにも協力してもらい、国際年には全国キャラバンや武道館などで、障害者のことを広く考えるためのナイスハート・キャンペーンを実施しました。
それでも1年間の取り組みだけでは、障害者のことをきちんと多くの国民の方たちが理解することには限界があり、民間の運動として継続して欲しいという願いから総理府が音頭をとってナイスハート基金という財団法人をつくったのです」
もらった資料によれば、設立となった1982年には、12月9日の「障害者の日」を広く知らせるため、文化放送をキーステーションとしたラジオ特別番組「ナイスハート愛の電話リクエスト」を実施し、あわせてチャリティコンサートや講演会なども開催している。
ところで協力しているいくつもの組織のなかでも、ひときわ大きな役割を果たしているのが当初から関わっている日産労連である。ここは労組費以外に労組員から月100円を集めて福祉基金を持っている。たかだか月100円といっても、その当時は労組員が23万人いた。このため毎月2300万円もの資金となるので、劇場でミュージカルを障害者をもつ子どもたちに鑑賞してもらうとか、施設に専用の車を寄贈するとか、アジアのNGOに寄贈したりしていた。
そこでナイスハート基金とタイアップし、障害者と健常者がいっしょになってスポーツを楽しむ「ふれあいのスポーツ広場」を企画し、日産スポーツプラザを会場にして82年から開催している。
この日産労連からナイスハート基金は、91年に5億円の寄贈を受け、今日の資金的な基礎をつくっているし、さらに92年には20周年となった自動車総連にナイスハート基金をつなげ、全国的な取り組みができる条件を整えていった役割も極めて大きい。多数の労組員をかかえる労働組合の役割発揮の場としても注目すべき動きのひとつだろう。
93年には、「ふれあいのスポーツ広場」を全国7会場で開催し、また韓国の障害者との交流キャンプの実施や、タイへのナイスハートツアーを行うなどしてアジア諸国との交流が強まっていった。
「私たちは、まず各国の現状をきちんと見たうえで、次にどうすれば良いのか考えることにしました。そこでタイだけでなく、モンゴル、ベトナム、ラオス、カンボジアなども訪れたものです。
実は大分の日産がモンゴルへ車をプレゼントしたこともあって、92年に初めてモンゴルから、モンゴル障害者連合の男女2人が日本に来ていました。その女性は小児麻痺で、国全体が困っている中でも特に障害者が困っており、とにかく見に来てくださいとのことだったんですよ」
・ モンゴルでの支援
その頃は89年にソ連が崩壊した直後で、70年余り続いた社会主義体制から現金中心の市場経済にモンゴルが転換して大混乱し、例えば税金を払っているのは国民の5%といった状態だった。つまり95%の国民が税金を納めることができないのは、それだけ一般国民の収入が減少したことであるし、同時に行政の税収も激減するわけだから、そのころのモンゴルの困窮する様子が推測できる。日本からのODAがなければモンゴルの国家が崩壊するというのも、そんなに誇張した言い方ではないだろう。
さっそくナイスハート基金では、93年にモンゴルツアーを実施して実情を視察し、すぐに古着を飛行機で送るなどの支援に取り組んだ。
「95年に郵政省から国際ボランティア貯金の寄付金の配分を受けまして、モンゴルにおけるリハビリテーションの専門家を育成するプログラムを始めました。最初の年は4人で、2年目には6人を日本に呼び、専門の施設で研修してもらいました。
ところで私たちナイスハート基金の目的に、国際交流はありますが、国際支援の言葉はありません。目的にないことをするのはいかがなものかという議論も当然のことながらありましたが、モンゴルの現実を見てしまうと何かしないといられませんよね」
明るく笑う槇さんである。支援先の状況変化が激しいNGOにおいて、現実に柔軟な対応をすることは大切なことであり、ナイスハート基金がモンゴルの国際支援に踏み切ったことは正しい選択だったことだろう。
槇さんが最初にモンゴルを訪問したときは、ロシア風のゆったりした町並みの首都ウランバートルで、道路が何箇所も陥没し、架線から外れた旧式のトロリーバスが乗客を乗せたまま修理をしていることもあった。食品売り場では、肉の他に野菜が少し並んでいるだけで空いている棚が目立った。3000人をこえるストリート・チルドレンが路上でくらし、その一部でマンホールのなかにおいて生活する子どもたちが増えたのもこのころからである。いわゆるマンホール・チルドレンであり、そこには障害児も目立つという。
槇さんの話は続く。
「モンゴルの町では、片足を切って松葉杖を使って歩いている人がよく目につきました。戦争をしているとか地雷が埋まっている地域があるわけでもないので、私は不思議に思ったものです。聞くと冬になれば零下40℃になることもあり、酔っ払って屋外で寝てしまうと凍傷になります。他にも火傷や交通事故や工場での怪我などにより、やむなく足を切断するのです。
ところで日本でも交通事故や工場での事故などはありますが、優れた義足を造ることができるので、ズボンの外からはわからないだけです。
モンゴルにもソ連からの支援を受けている40年前ころにできた義足を造るただ一つの国の工場はあったのですが、ソ連の崩壊後は部品がなくなって稼動していませんでした」
このため義足を造ることは、モンゴルにとって大きな課題となっていた。あるときアメリカから義足を造る中古の機械を輸入したが、モンゴルへ運んでいる途中で盗難にあって実現しなかった。
義足で切断した足の先端に当たるソケットと呼ばれている素材は、以前は皮のため重かったが、今はプラスチック製で自由自在に加工できる。このためプラスチックを加工する機械が必要で、最低でも1000万円かかった。
「この義足のソケットに使うシート材は、特別な製品のため日本から送り、あわせて義足の他の部品で日本では使えない物を集めてコンテナでモンゴルにこれまで7回送っています。そこには、モンゴルで極めて不足している車椅子やバギーや歩行器なども入れ、たくさんの方々のご協力で車椅子は、これまでの累計で480台にもなっています。
義足は膝から下の短いものでも材料代だけで6万8000円かかるし、大腿部からの長い義足になると、膝の部分になる金具だけで20万円以上もかかります」
98年にはナイスハート基金が中心となり、プラスチックを使った軽い義肢装具をつくる工場としてサイハンセテゲル義肢装具製作所をモンゴルに設立し、障害者の社会参加を応援している。
その後、機械や材料を充実させ、専門の技術者の養成をすすめてきた。
・モンゴルへの旅
槇さんは、1999年の暮れにモンゴルを訪ねたときがある。靴下を3枚重ね、さらに靴の中にホカロンを入れたが、それでも寒さが身にしみたとのこと。夏でも夜は10℃ほどになるほど自然条件は厳しいものがあるが、逆にそのことがみんなで助け合って生きることを強めている。
「モンゴルは、日本の面積の4倍もある広い国で、周囲はぐるりと見渡す限りの大草原です。夜ともなれば、無数の大きな星が夜空一面に輝き、日本では味わうことのできない自然に触れることができます。
またそこに240万の人々と、その数倍もいる羊などの家畜がのんびりとくらしています。ここにいる遊牧民の人たちは、訪ねてくる人を客人としていつも歓迎し、スーテーツアイという塩味のミルク茶や馬の乳で作ったお酒やチーズなどでもてなしてくれるのです」
モンゴルには日本にない雄大な自然があり、そこにはゆったりした時間が流れている。そうした大自然と人のぬくもりが豊かに残るモンゴルで、現地の障害児と交流するため、今年の8月中旬にもナイスハート基金ではツアーの参加を広く一般に呼び掛けている。
首都のウランバートル郊外にあるチンギスハン村を会場にして、スポーツや音楽などで交流するワークキャンプが中心の企画で、次のようなコースも選択できるようになっている。
① 草原体験コース:バスで2時間の景勝地。花咲く草原で散策や乗馬を楽しむ。
② 遊牧民のゲルでホームステイコース:草原の遊牧民のテント式住居であるゲルで、乳製品や料理を作ったりして生活体験をする。
③ 遊牧民の生活にふれ草原満喫コース:チンギスハン村に泊まり、遊牧民のゲルを訪ねる。
④ 障害児学校での交流やホームステイ
異文化に触れ、視線を変えて障害者との共生などについて考えるきっかけになることだろう。
(ツアー募集のチラシを縮小して)
・ ナイスハートふれあいスポーツ広場
当初は約23万人の労組員が加盟する日産労連の協力で開催していたふれあいスポーツ広場は、自動車総連の結成20周年を記念した1992年より規模や開催場所も広がった。今日では自動車総連に約74万人が加わっている。
2001年度は、北海道から九州まで全国13の都市において、障害者と健常者の合計5134名が参加し、綱引き・玉入れ・大玉転がし・フライングディスク・エアロビックなどの軽スポーツやゲームを通じて楽しんでいる。
・ レーナ=マリアさんの歌声を全国に
スウエ―デン生まれのレーナ=マリアさんは、澄み切った美しい声で世界中にファンをもっている。そのレーナさんのコンサートを、1998年からナイスハート基金では「ふれあいの音楽広場」として開催してきた。
生まれたときから両腕がなく、左足は右足の半分ほどの長さしかなく、食事や化粧など全てを右足だけで器用にこなすレーナさんのプロフィールには次のように書いてある。
「私は一度も自分を障害者だと思ったことはありません。自分のハンディキャップのせいで憂うつになったり悩んだりしたことはないのです。神様は、きっと何か特別なご計画があって、私をこのように造られたのだと思います。神様こそ私に生きる力と喜びを与えて下さることを、どこに行っても証したいのです」
レーナさんは重い障害にもかかわらず、3歳から水泳教室に通い、1988年のソウルで開催となったパラリンピックには、スウエ―デン代表として参加した。また91年にストックホルム音楽大学を卒業後、本格的な音楽活動をはじめて今日に至っている。95年には結婚し、98年の長野パラリンピックの開会式で熱唱して喝采をあびた。
このレーナさんは、コンサートだけでなく、対話集会にも参加することがある。2001年の10月に鶴岡市で開催した「レーナ・マリアとわかものたち レーナと語ろう」もそのひとつである。
高校生の実行委員によって進行したこの集いでレーナさんは、明るく次のような発言をして、小学校から大人までの参加者の感動を呼んだ。
「音楽とは人生の励ましです」
「音楽から学んだことは、歌で交流でき、理解が深まることです」
「障害児の指導のポイントは、障害児が自分たち自身でその方法を探る自由を与えてほしいことです」
こうしたレーナさんは、タイの障害児の支援を行なっている。障害の有る無しに関わらず、どんな国においても子どもたちはかけがえのない存在のはずだが、タイにおいては障害のある子どもを親が恥だと思い込み、バスや病院などに障害児を置き去りにするケースがある。こうして遺棄された障害児を収容している国立の施設はあるが、ただ食べて寝るだけの機能しかなく、こうした子どもたちをサポートするため2001年4月からレーナ・マリア基金を設立し、ナイスハート基金も事務を手伝っている
・ これからについて
槇さんにこれからの課題などについてたずねた。
「やはり青少年と障害児との交流をもっとすすめていきたいものです。障害のない青少年たちが、同じ歳の障害児が厳しい中でもがんばっていることを知り、自分の甘えを自覚することができます。
また障害者にもいい人もいれば嫌な人もいて、どんな人ともコミュニケーションが大切であることを知ることが出来ます」
その障害者であるが、1981年に障害の種類をこえて協力するようになったが、最近は日本障害者協議会への加入率も伸び悩んでいて、運動のテンションが低下しているのではないかと槇さんは心配顔で話す。
「ところでアジアを見ることによって、障害者問題の原点を理解することができます。例えばモンゴルは、日本の30年から40年まえと同じ状況で、何もないところから父母たちが苦労して必要なものを創っています。
このため、今、何をしているのかというだけでなく、どうしてそうなったのか知ると、原点を理解して目を輝かすことができます。また日本では、問題が複雑になって見えなくなっていることがいくつもあり、他人との交流を通してお互いが学びあうことができます」
NGOやボランティア組織において、槇さんの指摘するように、支援する側も支援される側も、お互いが学びあうことは極めて大切な要素である。この地道な積み上げによって、障害者と健常者が共生することを願うナイスハートを持った人が、これからも各地に広がっていくことだろう。
連絡先 (財)国際障害者年記念ナイスハート基金
事務局長 槇ひさ恵
〒105-0022 東京都港区海岸1-4-26ゆうらいふセンター
電話 03-3434-2170 FAX 03-5401-0681
URL:http://www.niceheart.or.jp
