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協同の実践
「共に生きるために」学校法人アジア学院
20070219
(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎
アジア学院を訪ねて
地下深く降りた上野駅のホームから東北新幹線に乗り、約70分で那須塩原駅に着く。都心のような高いビルはなく、駅周辺の商店や民家からはすぐ畑が広がり、その向こうに林や山が続いている。タクシーに乗り換えて「アジア学院へお願いします」と告げると、すぐその方向に向かって走っていった。
やがて農道の細い道をクネクネと曲がり、少しずつ山すそを上っていく。20分ほどで目的のアジア学院に到着した。なだらかな山の広い斜面を切り開き、いくつかの建物や畑などが点在して見える。
6ヘクタールにもおよぶ農場とキャンパスは、山すそに沿って細長く拡がっている。大きな杉の木があたりに何本も立ち、古くなった木造の建物などがアジア学院の歴史を物語っていた。敷地の中央には2階建ての本館があり、壁面にはここで学ぶ学生の出身地である東南アジアやアフリカが描いてある。この建物には教室の他に、約20名いるスタッフたちの職員室や、他に日本語や英語の図書室などがある。
本館の横には、丁寧に描いたアジア学院の地図が掲示されており、それを見ると全体の概要を把握することができる。本館の他に建物では、女子寮と男子寮、食堂と教室と礼拝堂を備えたコイノニア・ハウス、職員住宅が4棟、50名を収容できるセミナー・ハウス、食品を加工するマナハウス、機械類の修理をする農業工作棟のワークショップ、加工食品や民芸品を販売する小屋であるバナイクボ(タガログ語で小屋という意味)などが分散している。
さらには、牛舎、鶏舎、発酵おがくず豚舎、山羊小屋、育雛舎、堆肥場であるコンポスト、炭焼き窯、養魚池が点在している。
自給自足をモットーにしているため、あらゆる食糧を生産している。それだけでなくエネルギーにも配慮し、バイオガスや風力発電の装置まで設置してあることには驚いた。
正式名称はアジア農村指導者養成専門学校だが、学校法人アジア学院(Asia Rural Institute)と呼び、頭文字をとってARIをロゴなどに使っている。ちなみに学院のマークは、両手で持った稲穂の下にARIの文字を配置している。ここで毎年のように、アジアやアフリカからやってきた30名前後の研修生が学んでいる。
設立の目的
本館の1階にある職員室で、教務主任兼副校長の荒川朋子さんから話を聞く。2006年8月にアジア学院は、兵庫県国際交流アジア・太平洋文化賞を受賞したとき、式典で講演したのが荒川さんであり、そのときのレジメも見せてもらいながら経過などを聞かせてもらった。
「アジア学院を一言で表現すれば、アジアやアフリカの農村指導者を養成するための学校となります。理念として『ひとといのちを支える食べものを大切にする世界を作ろうー共にいきるために』を掲げ、食べものを生産し、食べて土に返すという人間にとって一番本質的な活動をしている共同体です。それも国際的な役割を発揮するNG0としては、我が国でも先駆け的な存在ですね」
この地にアジア学院が創設されたのは1973年(昭和48年)だから、日本ではかなり古い歴史を持つNG0である。当時は高度経済成長のまっただ中であり、海外のことよりも日本の経済に多くの人々の関心が集まっていた頃でもある。学校法人とはいえNG0を立ち上げるためには、かなり強固な基盤がないと難しかったはずである。どのような下地があったのだろうか。荒川さんにたずねた。
「1959年(昭和34年)に開催となった東アジアキリスト教協議会の総会における要請を受けて、東京町田市にある鶴川農村伝導神学校の中に東南アジア農村指導者養成所ができました。その翌年のことです。そのとき諸外国から求められたことは、『明治時代や戦後の日本におけるめざましい経済発展の基礎は農業にあり、独立して間もない東南アジア諸国の発展のため、ぜひ日本の農業を学んで活かしたい』とのことでした」
つまり第二次世界大戦の被害も大きかった台湾、韓国、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどの発展のため、日本の進んだ農業を学び活かすことに、日本を含めた各国のキリスト教関係者が協力し動き始めたわけである。
こうして神学校の一部で農業指導者の養成がはじまり、しばらくたった1970年(昭和45年)のことである。バングラディッシュに大洪水があって、世界中からの支援が届いた。その一つに日本から小型の耕運機300台もあったが、運転できる人がいなくてバングラディッシュの港に置かれたままであり、機械を使って米作りのできる技術指導者50名の要請があった。
そうした情報を受けた、アジア学院の前身である東南アジア農村指導者養成所の高見敏弘(たかみ としひろ)科長は、先の戦争に対する日本人としての償いとしても、ぜひ応えたいと決意した。そこでマスコミを使って酷暑にも耐えることのできる18歳以上の元気な男性50名を募集し、特別の訓練をした後に復興農業奉仕団として4カ月間もバングラディッシュの各地で働いた。もちろん高見さんは、団長としてその先頭に立っていた。1972年(昭和47年)のことである。
ちなみにこのときの支援は、戦後の我が国における最初の国際活動と言われており、また奉仕団に参加した有志によって設立されたシャプラニールは、現在もNGOとしてバングラディッシュなどの支援を継続している。
このときの経験がきっかけとなり高見さんは、神学校から独立してアジア学院という農村指導者養成のための専門学校の設立を決意した。
荒川さんの話は続く。
「高見さんが初代の理事長兼校長で、今のこの地にアジア学院を準学校法人として設立しました。1973年(昭和48年)のことです。このあたりの西那須野は、130年ほど前に多くの農民の手によって那須疎水の工事がすすみ、1万ヘクタールが開拓された歴史的な土地でもあり、そこにアジア学院を建設することは深い意味があったのです。本館の壁に埋め込んだ定礎には、『共に生きるためにThat We May Live Together』を刻み、その後の学院のモットーとしています。初年度の研修生は、海外から10名と国内から5名だけでした。6名の職員は、家族も含めて研修生と一緒になって講座や作業を進めていきました。
こうして民族も文化も言語も宗教も異なる人たちが、まさに『共に生きるために』をモットーにして、学び暮らすアジア学院がスタートしていったのです」
命に直結した有機農業を学ぶ
アジア学院では徹底した有機農業を学んでいる。そのことの意義について荒川さんの説明である。
「共に生きる営みは私たちを取り囲み、人々の命を支える食べ物を育む自然環境や、あらゆる生物の営みが破壊されては、私たちも生きていくことはできなくなります。ですからアジア学院では、農薬による被害や、過剰な化学肥料の使用による地力の低下や農家の経済的負担もあるし、また必要以上にエネルギーを使うことなどを考え、頑なに有機農業を守っています。
こうして手塩にかけて作った食べ物を私たちは、単なるモノとして扱いません。『人間と自然の業の結晶』として命に直結しており、人間の本質に訴えかけて、人間と自然や人間と人間の関係を明らかにしてくれます」
レイチェル・カーソン著による『沈黙の春』が出版されたのは1962年(昭和37年)で、有吉佐和子著の『複合汚染』は1974年(昭和49年)である。これらで指摘された農薬などによる環境の被害が、那須の地だけでなく、海外からの研修生の出身国でも問題になっていた。そこで人間だけでなく、植物や動物のすべてを大切に育てて食べ物を作ることにし、そのためにも有機農業を学ぶことにしたわけである。
アジア学院では共通語として英語を使い、そうした考えを表すためにFoodlifeとの造語を使っている。食べ物と命や生活をつなげることによって、食べ物の大切さをより鮮明にしている。このため10周年を迎えた頃からアジア学院では、「人の命とそれを支える食べ物を大切にしよう。共に生きるために」と表現するようになった。
創立者の高見さんの情熱
何回も話に出てくる創立者の高見さんに、少しの時間であれば会うことができるというのでお願いした。いくらか体調をくずされて、長年続けてきたアジア学院での講義なども、最近はできなくなっているとのことであった。
本館から歩いて数分もかからない場所に、高見夫妻の木造の住まいがあった。玄関から広いリビングに入ると、棚や壁などに世界各国の品物などが飾ってある。国際的に活躍されてきた高見さんのことが、これらからもよくわかる。
アジア学院のホームページには、高見さんの願いや考えなどを書きつづったコーナーがあり、それを一読すれば高見さんの人となりを理解することができる。それ以外にも考えなどをまとめたものは少なくない。その一つに著書『共に生きるために』があり、その中で以下のように触れている。
「朝晩農場で働き、自分達で食べるもの、また仲間に食べてもらうものを生産する労苦を共にすると、その中に人間の営みと自然の営みとがひとつになって素晴らしい食べものができてくる。
人間と自然の業の結晶は食べものであるということが分かってくる。
一年の営みの移り変わり、四季の変化、温度の変化などに敏感に反応していく植物、動物、昆虫など生き物の姿に接すると、人間である自分も自然の営みに呼応し反応しながら、命を豊かにする努力をしていこうという気持ちになってくるものである。
『共に生きるために』ということは、自然全体との共振(私はそれを『いのちへの共振』と表現している)であり、自然のおおらかさで厳しい秩序正しい美しい営みから、自分自身の生のあり方を学ぶようになることである」
あらゆる生物との共生の哲学が明確に語られている。
奥さんが手を添えてリビングにゆっくりと入ってきた高見さんは、背もたれのある椅子に深く腰をおろし、いくらか不自由な口を精一杯使い、アジア学院の歴史や理念などを説明してくれた。目を若者のように輝かせ、かみしめるように話す言葉からは、高見さんの変わらぬ熱い情熱を感じることができた。
私はぜひ聞きたいことがあってたずねた。
「もしかして高見さんは、賀川豊彦さんと出会ったことはありませんか?」
「私もクリスチャンですから、賀川先生のお名前は知っていますが、残念ながら直接会ったことはありませんね。ただ私はアメリカへ留学しているときに、賀川先生の本を何冊か読むことがあり、大変に感銘を受けたものです。協同の思想や立体農業などの考え方は、ここのアジア学院でも大切にしていますよ」
生協の育ての親とも言われている賀川豊彦の思想が、形を変えてアジア学院で息づいていることに驚いた。
スリランカで活躍する卒業生
2006年3月までに1076人もの卒業生が、東南アジアやアフリカの52カ国に戻って活躍しているとのことである。聞くとスリランカだけで、70名もの卒業生がいるとのことであった。スリランカの津波被災者を個人的なボランティアで支援している私は、2006年11月に有給休暇を使って訪ねたついでに2人の卒業生を訪問した。
一人は、スリランカ南部のゴール市郊外でマイクロクレジットを運営するヴィマールさんである。町をはずれ海岸から車で5分ほど入った村の一角に、まだ新しい2階建ての大きな事務所を持っていた。
活動の内容について50歳すぎのヴィマールさんに話してもらった。
「90年に日本で研修したとき、18カ国もの国々から研修生が来ていて、日本だけでなくそうした国からもたくさんのことを学ぶことができました。当時の私は公務員でしたが、帰ってきてからは政府に頼ることなく、社会の一番低辺にいる貧しい人々のために何ができるか考えました。貧しい人たちの経済的な自立の促進は、政府の意向でもありました。
そこで私は、貧しい村々を歩いてまわりました。すると、いろいろな人のいることがわかりましたよ。土地を持っている人もいれば、高度な技術を身につけた人もいるし、中にはお金を持っている村人もいます。一人で1ルピー(約1.2円)持っていても何もできませんが、10人で10ルピー(約12円)を集めれば何か仕事ができるのではと考えましたね」
ヴィマールさんは、話し合って納得した人を中心にして村々で小さなグループを作り、それぞれから可能な範囲でお金を集めた。93年のことである。参加した村人たちからアイデアを集め、最初に立ち上げたのは、椰子の実の皮にある繊維を使ってロープを作るプロジェクトであった。集めた約200ルピー(240円)を資金にしての仕事であった。ちなみにスリランカにおける小学校の先生の給与が月に1万ルピー前後だから、日本円に換算した額はさらに数十倍の価値が現地ではあると考えてよいだろう。
このプロジェクトの成功により、次ぎはそのロープを使ってマットを作るプロジェクトができとあり、またはお菓子作りなどへと広がっていった。
ヴィマールさんの話は続く。
「ひとつの小さなプロジェクトが成功すると、その村の中で次々と新しいプロジェクトができ、また近くの村にも広がっていきましたよ。その後にキリスト教のあるNGOの協力も得て事務所を完成させ、研修を充実させて活動を増やしてきました。
ところで仕事のできる条件がたとえあっても、夫婦の仲が悪くて喧嘩が絶えないとか、夫が酒飲みなどといったように、家族の中に8割の原因があって安定した収入につながっていません。そうした家族の問題を話し合って考え、私たちのスタッフを交えて仕事をはじめるための課題を相談し、具体的な計画を慎重に立てるので失敗することはまずありません。
その結果、今は3000万ルピー(約3600万円)が集まり、約50の村で4427もの事業を展開しています」
わずか13年間ですごい広がりをしている。先の大津波による被害者の中でも、このマイクロクレジットを利用して復興を進めている人たちがいる。それらの事業は、47種類に分類されていた。リストを見ると、紅茶の木を植える、椰子を植える、レンガ造り、たわし作り、弁当作り、家造り、洋裁、配送業、電気製品の修理など、どれも村の暮らしに直結した仕事がたくさん書いてあった。
そのいくつかの事業を視察させてもらった。舗装されていないデコボコの道を車で走り、洋裁、ヨーグルト製造、宝石の加工、木工彫刻の作業場を訪ねた。どれも自分の民家を活用し、家族が中心で働いていた。それぞれが必要最小限の初期の投資額を借り、コツコツと働きつつ確実に返済していた。10ルピーで製造して13ルピーで販売しているヨーグルトは、シャニカという17歳の娘の名前をブランド名にし、その娘さんも「自分の名前が出て嬉しい」とはにかんで話してくれた。
スリランカで2人目に訪ねたアジア学院の卒業生は、30歳代半ばの小柄なスマナナンダさんであった。ゴールより車で1時間ほど東に走った海岸にあるマータラの町で、大きなお寺で活躍する坊さんである。現在スマナナンダさんは、地域の福祉や環境を守る4つのプロジェクトに関わっていた。
そのひとつが、あるNGOと協力して進めている「環境を守るプロジェクト」である。2004年に押し寄せた10m近い高さの津波によって、町の海岸の多くが浸食されてしまった。そうした海岸に根を深く張り巡らす樹木を植え、海岸を守るプロジェクトである。
すでに海岸線の3kmに植えつけを終えているという。その場をスマナンダさんに案内してもらった。お寺から車で15分ほどの場所であった。波にえぐられた海岸には、津波によって倒された椰子の木などがそのままにされている。そうした海岸に、1m近くに成長したワタケイヤやココナツやムーディラの苗木が等間隔で植わっていた。
スマナナンダさんの話である。
「これらの木は塩風にも強く昔からこのあたりに多く育っていて、また根をしっかりと張ることができるので、海岸を守ることに適しています。
そこで津波に被災した貧しい住民たちに呼びかけて、種から苗木に育ててもらい、それを私たちのグループが買い取って植えています。村人にとって収入の金額はさほどでもありませんが、少しでも生活費の足しになり、あわせて自分たちの土地を守ることにつながっていますので喜んでもらっています」
アジア学院で学んだ「共に生きるために」を、二人とも地域の条件に合わせて創意工夫し、地域の仲間と一緒になって実践している姿が印象的であった。
日本一小さな学校だが、アジア学院で学んだ知識や技術や情熱は、遠く海を越えて発展途上国の地域社会へ確かに根付きつつある。
連絡先
アジア学院
〒329-2703 栃木県那須塩原市槻沢442-1
電話 : 0287-36-3111
