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Blog:西村一郎活動日誌

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ー沖縄と生きるー   響け、カンカラ三線(さんしん)


(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎


・自分たちの公民館造り
 「ド、ドーン」
 広い庭に並ぶ20個ほどの太鼓が、一斉にあたりの空気を揺るがす。赤い模様の入ったそろいの黒い衣装に、鉢巻き姿が凛々(りり)しい。
 本州より一足早く梅雨明けした沖縄の抜けるような青空の下で、ばちを大きく振り上げる腕が舞う。全身で太鼓にむかう男女は、近くの住民で今日のオープニングに向けて特訓をしたとのこと。
 1998年6月のその日、沖縄本島の中部にある読谷(よみたん)村で、23番目の行政区となった大添(おおそえ)に完成した公民館の記念式典が始まった。区長で、公民館の建設実行委員長も兼ねている上江洲(うえず)さんの挨拶である。
 「13年間かかって、やっとここにりっぱな公民館を建てることができました。村議会や建設業者のご協力とあわせて、延べにすると750人もの方々が、お互いに助け合うことを大切にするユイマール精神を発揮し、たくさんの奉仕作業に参加していただき、無事完成させることができました。誠にありがとうございます」
 小柄な上江洲さんは、日焼けした顔をいくらか緊張させマイクに向かっている。
 177㎡の木造平屋建て公民館の建設は、228世帯910名の大添区民にとって長年の願いであった。
 読谷村の集落単位で形成している字(あざ)では、老若男女がほぼ連日のように各公民館へ集まり、同好会や催し物などを開いている。
 ある字には、ラグビー部や野球部といったサークルの13組織が体育振興会に属し、棒術保存部やシシ舞保存部など3組織が芸能保存会に所属している。これ以外にも経済振興会や班長会などがあり、さらに老人クラブ、婦人会、青年会、子ども育成会、遺族会などもある。
 こうした各種の団体の集まりだけでなく、長寿を祝う会やカラオケ大会などもあり、それらの多くを各字でもっている公民館で開いているので、どこの館のスケジュール表にも空白はほとんどない。
 ところが、一番新しくできた大添区にこれまで公民館がなく、住民は集まることのできる建物を求めていた。そこで84年の区民総会で公民館の建設を満場一致で決議し、具体的な準備に取りかかった。85年に建設業者からもらった50㎡の中古のプレハブを建てたが、それはあくまでも仮のものである。
 さっそく、他の公民館を参考にし本格的なプランづくりをする。村役場の補助と同時に、米軍基地の近くで防衛施設庁周辺整備資金が利用でき、合わせると1億円となり、コンクリート造りの2階建公民館が可能であった。
 ところが、防衛庁は金も出すが口も出す。窓は全て二重にし、防音をしなくてはならない。このため密封した部屋のため空調や冷房設備が大きくなる。それによって建築の総額が増え、3000万円にもおよぶ住民の負担額が計画見直しのきっかけになった。
 「私たちは、この場所で住民の使いやすい公民館が欲しいのです。窓を大きくとって風を入れれば涼しいし、軒先を2mとれば雨の日でも子どもの遊び場にすることができますよ」
 庭に張ったテントの下で、私の横に座り泡盛をグイグイ飲んでいる区民の男性が説明してくれる。新しい公民館に参加者は入りきらず、戸を全てはずし、庭にもテーブルと椅子がたくさん並んでいた。
 「住民のなかには建築の関係者も何人かいますので、みんなの知恵を出し、誰もが納得する公民館にしようとなったわけです」
 結局、何回もの集会所建設委員会の議論をへて、ステージを備えた板張りの多目的ホールを中心とし、トイレや事務所や倉庫などを配置する案に決まった。計画書ができると、いよいよ建物づくりとなる。経費を少しでもおさえるため、ここでもいくつかの工夫があった。
 柱には電気会社から電柱を譲り受け、他に使用する木材と一緒に防腐剤処理を区民のボランティアでおこなっている。休日に実施するユイマールの取り組みで、1回目に62名の大人や子どもが汗を流した。
 「緞帳づくりも楽しかったですよ。ほら、正面の舞台にかかっているでしょう」
 横の男性が、先程から気軽に話しかけてくる。見ると幅約8m高さ3mほどの幕に、沖縄の伝統文化の紅型でもって、赤や青などの原色で鮮やかな花や魚を描いてある。本職に頼むと数百万円する品物を、染色家の指導を受け、紅型の原画づくりから下絵染め、染め付け、糊落とし、アイロンがけ、縫い合わせと、みんなで協力し仕上げている。
 前の村長で、その当時は太田知事の片腕として活躍している山内徳信(やまうち とくしん)沖縄県出納長も駆けつけて祝辞をのべていた。
 「大添区民のみなさんは、団結は力なりを実行され、大きな心の財産を学びとることができたものと思います」
 その後ステージでは、大添に住んでいる子どもの空手や80歳の女性による踊りなどが次々に披露されていく。手作りの獅子2頭が、三線に合わせて所狭しと跳ね回った。集まった人たちは、昨晩から準備していた手作りの郷土料理や泡盛に舌鼓をうちながら、舞台の人と一緒に楽しんでいた。

・エイサーの熱気が
 3時ごろに式典は終わって大半の参加者は引きあげたが、実行委員などを中心として50名ほどが残り、公民館の広間に座る。まだかなりの泡盛や料理が残っていた。
 「さあ、これからが本番ですよ。どうぞ、こちらへ集まってくださいね」
 無事に式を終了させてホッとした表情の区長は、料理や泡盛を中央の台へ運びつつ大きな声をあげている。
 あぐらを組んで座った男性が三線を手にし、すぐリズムの速い曲を弾き、同時に歌いはじめる。するとそれを待っていたかのように、数名の男女が立ち上がって踊りだした。沖縄で祭などにつきもののエイサーである。
 腕を高く上げ体を左右に波うたせ、リズムに乗って踊る。どことなく動きは阿波踊りに似ているが、特別に決まった形はない。それぞれが思い思いに全身を動かし、座っている人たちは手拍子で応援する。
 「1人知らない人がいるので、ここらあたりで自己紹介してもらいましょうかね」
 何曲か踊ったころ、正面に座っている男性が私を見て大きな声をあげた。
 おいしい泡盛をかなり飲み、ふらつく足取りで私はその場に立った。急に言われたので、あいさつの準備はまったくしていない。
 「えー、どうもはじめまして。この村のルポルタージュを書くため、東京から来た西村といいます。よろしくお願いします」
 「ポタージュがどうしたの。何のため来たのかもっとわかるように話してくれませんか」
 私は会釈して座ろうとすると、鋭い声が飛んできた。「エッ」と思いつつ、酔いが急速にさめていく。
 「理屈や理論などで、上から被せる見方では社会が見えてきません。そうでなく、現場からの事実でもって本質を語らせることが重要です。そこにルポのミッションがありまして、この読谷村のコミュニティーを通して元気な沖縄を表現したいと考えやってきました」
 何杯もの泡盛で回転の鈍くなっている頭を使い、必死になって私は言葉を探した。
 「わからんなあ。そんな難しい言い方でなく、きちんと私たちにも理解できるやさしい日本語で話してくれませんか」
 三線の音も途絶え、場が白けはじめている。はやく決着をつけなくてはいけない。
 「これまで伊江島や名護市などにも私は入り、たくさんの人に会ってきました。活躍されている個人はいますが、村や町全体で文化や平和を守ることには残念ながらなっていません。ところが、この読谷村は、みんなの気持ちがひとつになって平和や文化にもこだわっています。そのすばらしさに触れたくて、昨年に続いて今年もやってきました」
 背中に冷や汗が流れている。腹をすえ、素直な気持ちで話した。
 「よし、わかった。サー、立ったままで、こちらにきて一緒に踊ろう」
 それまで鋭い視線を投げかけ質問していた男性が、急にニコニコして私の手をとって舞台へあがる。すぐに三線や歌声が流れ、手拍子も一段と高くなった。
 「ハイ、両手をこうして高く上げ、ここがあなたのいる東京。ハイ、次はこうして手を下げてきて、ここが沖縄。ハイッ、また繰り返して」
 言われるままに手足を思い切り動かし、私は心ゆくまでエイサ-を踊った。

・基地に文化のくさびを
 沖縄本島中部の西側で、東シナ海に突き出るように位置している読谷村は、35〓の平坦な土地に約3万4000人がくらしている。
 読谷村が、歴史上に登場するのは何回もある。古くは琉球における中心地として栄え、NHKテレビで全国的に有名になった「琉球の風」はここを舞台にしている。
 当時の中国と琉球の交易などは、この読谷村を窓口としておこなわれていた。素朴で力強い沖縄の焼き物も、中国からここにまず伝わり、それから那覇の壺屋などへ広がったとされている。
 近年の歴史に大きく登場するのは、第2次世界大戦のときである。1945年4月1日のアメリカ軍による沖縄本島上陸地点は、この読谷村であった。そのとき1万5000人ほどいた村民は、4分の1にあたる3700余名が殺される。さらに日本本土へ向けたアメリカ軍の出撃基地にするため、村のなかに2つの飛行場を設け、実に95%の土地をアメリカ軍の基地にしてしまった。
 そんな状態から戦後出発せざるをえなかった読谷村が、今は基地を村の47%まで減少させ、何よりも人口がずっと増えつづけている。沖縄においても人口の都市集中がすすむなかで、県庁のある那覇市から車で1時間もかかる読谷村においてである。それだけ村が活性化しているとみてよいだろう。
 新しい読谷村役場を訪ねた。オレンジの屋根が印象的な建物の入口には、「自治の郷」と「平和の郷」と刻んだ門柱が建っている。明るい入口やホールの柱はすべて丸く、役場というよりも、どこか大きなホテルのロビーのような雰囲気である。案内係の若い女性は、「こんにちは」と笑顔で対応し、気軽に誰でも役場へ足を運ぶことができる。
 旧役場の一室で、村史の編集などを担当している職員の小橋川(こばしかわ)さんに、村づくりの特徴などについてたずねた。
 「74年に前の山内村長が当選してから、大きく村政が変わりはじめます。当初は議会のなかで山内支持は極少数でしたが、2カ月後の議員選挙で与野党が逆転しましたよ。
 そこに示された村人の意思は、文化と基地を構造的にとらえたものです。つまり文化が、人間の活動として無から新たなものを創り出すのに対し、基地は戦争につながって全てを破壊させてしまうということです。
 そこで読谷村は、基地のなかに文化のくさびを打ち込むことにしたわけですよ」
 72年に沖縄の日本復帰がおこなわれてからも、基地による経済的な恩恵を当てにする自治体は少なくない。そうしたなかで読谷村のように、自分たちのすすむ方向をアメリカ軍基地と相容れないと明確にしたことは珍しい。
 「それからの村づくりにおいて、私たちは3つの原則を大切にしてきました。
 第一は、職員が仕事をしつつ闘いの現場にいること。第二は、住民運動を効果的にすすめるため、過激なセクトなどとの関わりはもたず非暴力を通すこと。そして第三に、基地の跡地計画をもって返還闘争を組むことです。
 あらゆる場面で、これらの原則を守ってきたことが、多くの人たちの支持を受け、村の行政と村民を一体にすることができましたね」
 以前、落下してきたアメリカ軍の大型トレーラーによって、庭先で遊んでいた小学4年の棚原隆子ちゃんが圧殺された村である。誰もが基地の返還を強く望んでいた。そのため村の行政は、1つひとつの返還を組み立ててくる。
 たとえば村内の基地の1つに、不発弾処理場があった。ここで山火事や毒ガス流出などのトラブルが続き、人々にとって大きな不安となっていた。この場所を伝統文化の1つである焼き物の里にしようと計画し、アメリカ軍と村はねばり強く交渉した。その結果、人間国宝の金城次郎さんなどが窯を造り、今や県内はもとより県外にも広く知られた「やちむん(焼き物)の里」となって、文化の炎を燃やしている。
 「アメリカ軍の返事には、『イエス』と『ノー』しかありません。だから、アメリカ軍の論理より優れた案をこちらが出すと、相手は『イエス』と言ってくれます。そこがアメリカのすばらしい点ですね」
 その極めつけが、アメリカ軍のパラシュート降下訓練場である読谷補助飛行場内に造った村役場だろう。1997年4月に開設となった新役場の敷地は、その周囲に運動広場や平和の森球場などがあり、全てで3万㎡の広さがある。名目上は「共同使用合意地」となっているが、こうした事例は国内はもとより、国際的にもはじめてではないだろうか。

・人類の未来は常に明るいものでなければ
 読谷村の人々が願う文化を発展させるために、人と文化を否定する戦争につながる基地撤廃が必要だし、平和にこだわる考えが出てくる。それも机上の抽象論でなく、自らが参加してつかみ取るものでなくてはならない。
 丸顔で40歳代の小橋川さんは、熱のこもった話をつづける。
 「平和行政は、読谷村にとって重要政策の1つです。条例でそのことを明確にしている自治体は、全国でみても数は少ないのではないですか」
 条例まであることに驚き、さっそく見せてもらう。「読谷村平和行政の基本に関する条例」とあった。
「(目的) 第1条 この条例は、第2次世界大戦、とくに悲惨な沖縄戦の教訓とそれに続く異民族支配の体験を踏まえ、恒久の平和を希求する村民の意思に基づき、読谷村の平和行政に係る基本原則並びに平和に関する事業を推進し、もって村民の平和で豊かな生活の維持向上に資することを目的とする。
 (基本原則) 第2条 読谷村は、世界平和を求める村民の意思を表明した『非核宣言』と憲法擁護の精神に基づき、日本国憲法の基本理念である恒久平和の実現に努めるとともに、村民が平和で安全な環境のもとに、人間としての基本的な権利と豊かな生活が築ける社会の実現をめざして平和行政を推進するものとする」
 この後に平和事業の推進などの条項が続く。この条例に基づき、役場の全職員を対象とした憲法の学習会や、村独自の平和創造展などを積極的に開催してきた。まさに憲法でうたう平和条項が、しっかりと読谷村に根づきつつあるといってよいだろう。
 役場の近くにある広場で、95年に読谷村議会で採択となった「不戦宣言」の石碑が立っている。「人類の未来は常に明るいものでなければならない」ではじまる宣言の石碑の後ろを、さらに婦人・老人・青年会・児童生徒などが作成した反戦平和を求める5本の石碑がしっかり取り囲んでいる。

・地域性を大切にする字別構想
 これだけの取り組みを、いったいどのようにして村人は支えているのだろうか。人数が少なければまだしも、村といっても3万4000をこえる人々がいる。普通であれば、読谷町となってもおかしくない規模である。
 村役場の職員や議員が努力しても、これだけの人たちを上から動かすことにはおのずと限界があるだろう。
 その疑問点を、再び小橋川さんにたずねた。
 「大きな役割を発揮している1つが、村のなかに23ある自治組織の字ですよ。その字と村の思いが一致したため、これだけのことが実現できたわけです」
 字といっても、23あるそれぞれの広さや生活している人の数はまちまちである。人口が100名足らずの上地があれば、2500名をこえている楚辺(そべ)や波平(なみひら)などの字もある。
 地形も大きく異なり、海に面している所があれば、小高い丘の多い字もある。大半が基地から返還された場所もあれば、まだ多くが鉄条網で囲われている字もある。
 「字の特徴を村の行政に活かすため、95年にまとめた字別構想が効果的でした。職員が手分けして各字を訪ね夜遅くまで懇談し、現状がどうなっていて、これからどうしたいのか議論してまとめたものですよ」
 読谷村は復帰後の「総合計画基本構想」において、村民主体、地域ぐるみ、風土調和の原則を確認している。この考え方は、91年に策定した「人間性豊かな環境・文化村」と題した第2次総合計画に活かされ、それをさらに発展させるため、94年からこの字別構想の策定がはじまった。
 各字において、以下のような内容で議論がおこなわれている。ときには議論に花が咲いて予定の時間を大幅にこえ、途中から地酒の泡盛を飲みだしたこともあるそうだ。
 第1回 特性と課題で、字毎の生活上の問題点などを出し合い、課題を明らかにする。 第2回 目標と施策で、問題の解決策とあわせ、ソフト事業及びハード事業にわたって    、字づくりの施策を検討するとともに、施策を通して見えてくる地区の将来像や    目標を検討する。
 第3回 目標にふさわしいスローガンを検討する。
 第4回 推進事業で、構想実現のため一字一事業を検討する。
 なお、議論に参加した役場の職員は、調査する課を横断する「むらづくり合同推進プロジェクト」からと、あわせてその字に居住してる人であった。
 250ページをこえる字別構想の報告書には、議論した内容をふまえて字毎に具体的な将来像が描かれ、かなりユニークな取り組みである。普通であれば、教育や福祉など行政の縦割りにそった計画が一般的である。いったいどこからこのような斬新な発想が生まれたのだろうか。
 「5時になって仕事が終わると、誰ともなく役場内のある場所に集まり、各自が1000円ほどのカンパを出しあって酒盛りがよくはじまりましたね。ここにはいろいろな課の人がきますし、助役だろうと村長だろうと関係なしに自由な議論をします。
 夢物語のような話も出ますが、いくつもヒントになって実現していますよ」
 少数の優れた指導者の力でなく、職員の自由なコミュニケーションから、全国的にみても先駆的な政策がいくつも生まれ実現している。
 最後に小橋川さんへ、沖縄の心について質問した。
 「沖縄の心を表現しているのは、カンカラ三線だと私は思いますね。戦後の何もないとき、空き缶やパラシュートの紐でカンカラ三線を作り、どんなにつらくても沖縄の人たちは歌と踊りを忘れませんでした。むしろ、大変だからこそ歌と踊りで明るく立ち向かったのかもしれません。そのパワーが、沖縄人にはありますよ」
 後日訪ねた村の資料館には、3本のカンカラ三線が展示してあった。静かに爪弾きつつ、小橋川さんの言葉を私は噛みしめた。

・紅イモで産業おこし
 村おこしに紫色した紅イモが大きく貢献していると聞き、その現場を訪ねた。農産物としてでなく付加価値をつけ商品化し、沖縄はもとより本州などへも出している。そのため村の人たちが出資し、株式会社ユンタンザを設立していた。
 社長の松田さんに話を聞く。
 「ユンタンザとは、こちらの言葉で読谷村を表し、村にあるいくつもの産業や文化や人材などを結び付け、村おこしするため私たち村人がつくった会社です」
 会社の目的は次のようになっている。
 ①地域産業に関する商品の企画・立案・研究開発ならびに販売の斡旋
 ②農産物、畜産物及び水産物を原料とする物品の加工・製造・販売
 ③イベント企画、娯楽保養施設の経営、百貨販売業、他
 このため2000万円の資本金を集め、その株主に読谷村の商工会役職員・会員、村役場職員、村会議員、村内経済団体役職員、一般村民など80名が名を連ねていた。
 こうして1992年に発足したユンタンザは、村の特産品である紅イモを素材とし、現在は紅イモアイスクリーム、紅イモソフトクリーム、紅イモチップス、紅イモかりんとう、紅イモせんべい、紅イモパンなどを商品化し販売している。
 「会社を設立するまでに、下準備として読谷むらおこしシンポジュウムやユンタンザむらおこし物産展を昭和61年に開催したし、その後、紅イモシンポジュウムやユンタンザ夢づくりマチづくりシンポジュウムなども開き、多くの村の人たちに参加していただきました。
 特に平成3年からは、事業をする人材育成がポイントなので、ユンタンザむらおこし塾をスタートさせたものです」
 このむらおこし塾は、役場の労組からも毎回3名が参加するほど幅広い支持を受け、議論だけでなく各地の視察など積極的に活動している。
 「会社をつくったとき、年間で10億円の売上にしようと私が言うと、皆に夢物語だと笑われましたよ。でも今は誰も笑いません。いずれ突破するでしょう。
 紅イモの栽培農家へ現金支払いで喜ばれていますし、イモの皮むきを知的障害者や高齢者の方にお願いしていますので、少ないですがそうした人の収入源にもなっていますからね」
 ユンタンザのような村人による新しい共同化した事業は、まだ他にもある。
 東シナ海に突き出た残波岬にあるゴルフ場もそうである。資本に物を言わせる企業の投資話はたくさんあったそうだが、それを全て断り、ゴルフ場にあたる地主の6名を中心に、村人8名のオーナーによって会社を1989年につくった。
 環境に優しい経営めざし、ゴルフ場における日本初の無農薬宣言をし実行している。プレイ代も安く利用者から好評で、村外から来る人も多い。このゴルフ場の職員40名は全て村の住人で、この面からも読谷村の活性化に貢献している。
 さらには、農薬を使わず芝を管理するため開発したバイオ技術を活用し、バイオヨミタンという別の会社もできている。このバイオ商品は、紅イモなど農産物の育成や、家庭の生ゴミの処理などで効果をあげている。
 読谷村で、かつて沖縄だけでなく日本各地の村で培われていた人と人をつなぐコミュニティーが、今でも字や他の形で健在し、村おこしに大きく貢献している。

・土に命を宿らせ
 文化を守り発展させる村の政策もあって、何人もの芸術家が活躍しており、彫刻家の金城実(きんじょう みのる)さんもその一人である。
 はじめて電話すると、「夕方でも遊びに来ませんか」とのこと。さっそくその日の夕方、教えてもらったアトリエへ自転車で走った。
 村の中心地から海へ少し下がった場所に、モルタル造りの四角い2階建てがある。なだらかにつづく芋や砂糖きび畑の先に、東シナ海が雄大に広がっていた。建物の1階がアトリエで、2階は住まいになっている。
 「こんにちは」
 アトリエの入口から声をかけると、奥から「どうぞ」という男性の声が返ってきた。
 土足のまま入って、その場の重い雰囲気に一瞬たじろいだ。天井が高く広い土間は薄暗く、入口近くに石と木で造った囲炉裏がある。その周囲の壁に、いくつも等身大の像が静かに並んでいる。
 三線をかかえてゆがんだ口を開けている人、合掌している細長い顔の尼さん、笠をかぶった農夫などがいた。さらに目がなれてくると、いたる所に大小さまざまの彫刻や面などが置いてある。
 それらがジッと私を見つめ、何か語りかけてくる。歌っている者もいれば、叫びや嘆いている人もいる。重たい空気のなかに足を止めていると、裏庭の方から「こっちですよ」と声がした。
 すでにテーブルには、泡盛やビールが置いてある。白いあご髭をのばした金城さんをはさんで、40代の2人が雑談していた。
 「さあ、まあ一杯」
 挨拶する間もなく、まず乾杯である。誰の紹介もなく初対面の人でも、こうして歓待してくれる優しさが、私には驚きと同時に嬉しくもあった。
 彫刻家の金城さんは、独学で彫刻を自らのものとされ、平和や差別反対などをモチーフにした多くの作品を創っている。沖縄戦で集団自決させられたチビチリガマの入口にあるモニュメントは、右翼によって前に破壊されたが、より訴える力の強い作品をその後新たに完成させている。
 次の日に粘土をもって再び金城さんを訪ねた。作品づくりを教えてもらうためである。 「面でも創ってみますか」
 昨日と同じく、泡盛の入ったグラスを横に置いた金城さんである。私も1㎏ほどの粘土をこねはじめた。台の上で、パンパンたたきつつ顔を創っていく。
 「だめだね。お好み焼きではないんだから。人の顔というものは、そんな平面でなく、もっと立体的だよ」
 言いつつ金城さんは、素早く指先だけで面を創っていく。目の窪みや盛り上がったほほなどを形にすると、大きな鼻を真ん中にのせた。
 「顔の表情を創るとき、目とか鼻とかどこかにポイントを1つおくこと。それと、道具はできるだけ使わず、指と爪で勢い良く仕上げることだよ。道具なんて割り箸と楊枝で充分だから」
 そんな説明をしているうちにも、金城さんの前に面ができていった。目を閉じ、何かを深く考えている。命を吹き込まれた面は、悲しんでいるのか喜んでいるのかわからないが、それでも何かを強く感じさせる。
 できあがった面は数日間乾燥させ、その後「やちむんの里」の登り窯で本焼きしてもらった。沖縄の赤い粘土に命を吹き込んだ面は、これからもいろいろなことを静かに語ってくれることだろう。

・個性をいかす21世紀へ
 3回目に読谷村へ私が入ったのは、1999年2月のことである。知人の紹介で、念願の山内徳信さんに会うことができた。98年末の知事選で太田さんが破れ、それに伴い山内さんも県庁を去った。
 「戦争がやっと終わったころ、土間に柱を立てた草ぶきの読谷高校で、民主主義と題した本のなかに私の原点を見つけることができました。新しくできた日本国憲法について解説した本で、男女平等、平和主義、そして主権在民ということに触れていました。それまでの軍国主義とまるで異なり、感動して人生を変えるきっかけになりましたね」
 アメリカ軍が沖縄へ上陸したとき10歳だった山内さんは、草刈りの友達が洞穴内で岩の下敷きとなって殺された。それから8月の敗戦まで山中を逃げ回り、口にすることができるものは、食中毒をおこしやすい蘇鉄(そてつ)や、捨てた米軍の残飯まで食べている。そうした山内さんの体験が、憲法の平和思想に触れ感銘したのは当然である。
 「教師となって母校の読谷高校に勤めることとなり、歴史を教えていました。ところで当時は高校の進学率が3から4割ほどで、勉強したくてもできない勤労青年がたくさんいました。そこでそうした人を対象に青年学級ができ、私も11年関わったものです。
 主権在民を住民の内部から否定させる動きは各地にあり、世界の歴史をみても、独立前のインドにおける綿がそうですし、中国における阿片もそうでした。今日の沖縄においては、米軍基地の使用料であるお金がそうです。不労所得は、人を不健全にします。
 生徒に対して時事問題を主権在民の視点から解説し、歴史や将来をきちんと見ることのできる人づくりをしてきたわけです」
 山内さんは、ずっと教師生活をおくるつもりでいたそうだ。ところが72年の復帰後に、読谷村の人々は変革を期待し、山内さんが村長選に出馬することを強く求めてきた。何度断っても、逆に支援する輪が広がっていく。本人が知らないうちに、12の字で山内後援会ができていた。ふんぎりが着いたのは、ある友人の説得である。
 「読谷高校1000人対象の人づくりを、村民全体に広げると考えればよいではないか」
 憲法の理念にそった幅広い教育を、生徒から村人に拡大することで山内さんの決心は固まり、39歳の村長が誕生した。
 「当選したときは、3カ月しかもたないと陰口も言われましたが、74年から98年まで村長を勤めることができました。その間に不充分さはありますが、読谷方式と全国的に注目されるいくつかの取り組みを皆さんと進めてきました。
 文化の楔をいくつかの点として打ってきたことが、その後に線として広がり、米軍基地を村の73%から47%まで縮小させ、平和な地域社会づくりに貢献することができています。
 高校の教師をしているころは、1人ひとりを育て、基地や戦争に反対する文化の点を打ってきました。次に村長となってからは、点と点をつないでいくつも線ができてきました。これからは線と線がつながり、やがて面となっていくことでしょう。
 そのことによって、これまで以上に文化や平和の根づいた読谷村になることができるし、村民1人ひとりが勇気と誇りをもつことができます。
 競争の時代である20世紀はもうすぐ終わり、その人にしかない個性を活かす時代に21世紀はなります。読谷で取り組んでいることが、ますます大切になっていくことでしょうね」
 全国の高校ダンス大会において、読谷高校が連続優勝し話題になっている。躍動感あふれるエネルギッシュな踊りは、毎年の読谷祭りだけでなく、沖縄県のイベントなどにも色を添えてきた。音楽の世界では、読谷高校の同級生だったキロロが全国にファンを広げている。
 読谷村のカンカラ三線が、21世紀に向け新しい音色を奏でている。   (完)

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