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Blog:西村一郎活動日誌

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沖縄の心を美術館に託し
―沖縄の米軍基地に造った「もの想う空間」・佐喜眞(さきま)美術館―


(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎


 ホール正面にある大きな絵の前に立つ。沖縄でガマと呼ぶ洞窟の中を描いているようでもあり、全体として薄暗い。それでも近くに寄ってじっと見つめると、墨で書いた多数の人物が並んでいることがわかる。子どもがいれば、老人たちもいる。
 その一人ひとりが異様な雰囲気をかもしている。画面中央には、逆さまになった等身大で全裸の女性2人が並び、どちらも足首から赤い血を流し、それが顔や振り乱した髪にまで伝わっている。
 老人の首に剃刀を当て、今にもかき切ろうとしている若者がいる。鎌や鍬を振り上げている男たちがいれば、お互いの首に縄をまいて引き合っているモンペ姿の女性もいる。他にも、体をゆがめて横たわるおびただしい死体や、さらには手とか足だけがいくつも並ぶ。そのどれもが、目玉がなくて指先を大きく反らし、恐怖の大きかったことを物語っている。
 画面の右下には、まるで絵の全体を見つめているような顔が多数並んでいるが、その半分は不気味な頭蓋骨となっている。
 そして、燃え盛る炎と流れた血が、どす黒い赤で描かれている。
「原爆の図」の作者として国際的にも著名な丸木位里・俊夫妻が、精根込めて作成した「沖縄戦の図」であった。縦4m横8.5mもある大作で、1984年に完成した。
 高齢であったにもかかわらず丸木夫妻は、沖縄の各地を実際に訪ね、戦争のときに何があったのか詳しく調べた。集団自決のあった読谷村のチビチリガマに入り、また皇軍といわれていた日本の兵隊が民間人を殺した久米島にも足を運んでいる。
 そして実在した人物をていねいに描き、沖縄戦とは何であったのか追求している。画面中央で逆さになっている娘は、スパイ容疑の拷問によって狂い、日本兵の竹槍によって殺された。このため画面には、鋭くとがった竹槍が娘の頭に向いている。
 こうして重いドラマをもった一人ひとりをモデルにし、戦争のとき激戦になった一つである那覇市の首里で、ビニールシートの上に紙を広げて2人はこの絵を作成した。
 2人ともすでに故人となっているが、それぞれ「沖縄戦の図」について言葉を残している。
「原爆の図をかき、南京大虐殺をかき、アウシュヴィッツをかきましたが、沖縄を描くことが一番戦争を描いた事になります」(丸木位里)
「ここに命を落とした人々の思いがしみて石からひざへと伝わってくるのでしょうか。はるばるここに来て、ここに坐って描かねばならないのです。空、風、水、土、草、鳥、みんなが黙ってわたしたちの筆を動かしてくれるのです」(丸木俊)
 また2人の沖縄戦に対する率直な思いを、絵の左下へ次のように書き込んであった。
 「恥ずかしめを受けぬ前に死ぬ
 手りゅうだんを下さい
 鎌で鍬でカミソリでやれ
 親は子を夫は妻を
 若ものはとしよりを
 エメラルドの海は紅に
 集団自決とは
 手をくださない虐殺である」
 目を覆いたくなる場面がいくつもあるが、目をそらす訳にはいかない。これがかつての沖縄戦における事実であり、その現実をきちんと認識することが、現在や将来を考える基礎となる。
 かつてスペインで鑑賞した画家ピカソのゲルニカも迫力はあった。ドイツのナチスが行った無差別の戦略爆撃によって、ゲルニカの町における多くの民間人や家畜などが殺され、そのときの恐怖や怒りを表わしているとして我が国でも有名な絵画である。
 しかし、抽象化された人や馬は、どこか私には別世界を見ているような違和感があった。
ところがこの沖縄戦の図は、表現が生々しく、同じ人間として対面することができる。このため画面から、一人ひとりの泣き叫ぶ声やうめきが聞こえてきた。流れる血の匂いがし、暗闇に広がる赤い炎はパチパチと音をたて消えることはない。
 かつて丸木俊さんは、「沖縄戦の図は、沖縄戦を体験された沖縄の人々と私たちの共同製作です」と言ったそうだが、充分にうなずける。
 今、年間で4万人ほどの修学旅行生が、この美術館を訪ねている。中には茶髪だったり化粧の派手なガンクロなどで、ガヤガヤと騒ぎながら入ってくる生徒もいるがが、この沖縄戦の図の前で立ち止まり、館の人から説明を聞きつつ、やがて目の色を変えることがたびたびあるそうだ。
 芸術の持つ力のすばらしさを、あらためて認識することができる。

・ 佐喜眞美術館へ
 美術館の場所を電話でたずねると、宜野湾(ぎのわん)市役所の近くとのことであった。米軍の普天間基地に食い込み、事前に送ってもらった資料の写真で建物の変わった形は知っていたから、とにかく市役所まで行けばすぐにわかると思っていた。
 市役所の前でタクシーから降り、基地の方向を見渡したが、それらしき建物はない。何人かにたずねて、やっと場所がわかり歩いていく。
 6月下旬の沖縄は梅雨明けで暑いと聞いていたが、ジリジリと焼け付くように太陽の光が射してくる。地元の人も例年以上の暑さだと話していたから、中途半端ではない。10分ほど歩くと、帽子をかぶった額から汗が流れ出た。
 民家と民家の間を歩いていくと、やがて緑の多い米軍基地に食い込むようにして佐喜眞美術館が現れた。1000坪の広い敷地に、まず18世紀頃に造られた大きな亀甲墓(かめこうばか)があり、その前に乾いた土の広場がある。その奥に、モルタル仕上げの白い美術館が横たわっていた。庭を囲むように緩やかな曲線でひさしがあり、そこにはまるで西洋の古い建物を連想させるような大きな円柱が何本も立っている。
 個人で建てた美術館なので、普通の民家を一回りほど大きくした建物をイメージしていた。ところがかなりの大きさである。
 館内に入った。冷房が気持ち良くきき、床は防音効果の高い木製の集積材を敷き詰めてある。天井は高く、ロビーや通路などもゆったりした空間を造っている。よくここまで個人の力で造ったものだと感心する。
 ロビーの奥に3つの広い展示室があり、先に触れた「沖縄戦の図」は、一番大きな第3室の壁面一杯を使って常設していた。
 横に細長い建物の裏側の一角には、落ち着いた木製の椅子とテーブルを配置した小さな喫茶室がある。絵の鑑賞で疲れたりすると、ここで一休みすることができる。床から天井まで大きくとってあるガラス窓からは、すぐ目の前に米軍基地のフェンスが見えた。
 建物の造りでこだわっているのは、何も内部だけでない。屋上にもユニークな工夫がほどこされている。遠くから見ると、四角い屋根の上に大きな三角形を重ね、米軍基地を見下ろしているようでもあった。
 横の階段から屋上に登る。すると幅3mほどの階段が、西の空に向かってゆるやかにのびていた。その階段であるが、まず6段登って平らな踊り場があり、そこから先は23段で先端に着く。第二次世界大戦において、日本で唯一の地上戦となった沖縄戦が、55年まえにやっとのことで終結した6月23日を意識しての段数である。
 その階段をゆっくり登りつめると、大パノラマが展開していた。眼下に広大な米軍の普天間基地が広がっている。緑に囲まれて長い滑走路が横たわり、その向こう側に日本人が暮らす建物がひしめき合い、さらにその先には青い東シナ海がどこまでも広がって、青い空と長い水平線をつくっていた。
 この階段は、方向にも工夫をこらしている。6月23日の日没線に合わせているため、階段の突き当たりにある壁の小さな窓から、慰霊の日に東シナ海に沈む夕日が射し込んでくる。

・ 館長の願いとそれを共有する人たち
 美術館長の佐喜眞道夫(54歳)さんに話を聞く。長年鍼灸(しんきゅう)をしてきただけあって、体格はがっしりしているし、半袖から出ている腕も太い。それでもメガネをかけた表情はどことなく優しい。
 「72年に沖縄が日本に復帰するまでは、基地の地主と教師や自治体職員、そして基地で働いている労働者が中心となって、まさに島ぐるみの闘争がいくつも展開されていました。ところが返還された翌年の73年には、教職員や自治労職員の給与が5倍になり、それにともなって軍用地代も5倍になったのです。
 たまたま軍用地主であった私にも、今までの5倍の地代が入るようになり、私にそれが30年間は確実に入ってくると考えられました。それを資金にして絵画のコレクションを始めたのです。当初は浮世絵を集めたのですが、何かしっくりせず、社会的なメッセージのある作品に移っていきます。その結果、上野誠やケーテ・コルヴィッツ、そしてジョルジョ・ルオーなどの作品を手に入れたのです。これらの作品に共通するのは、『生と死』『苦悩と救済』『人間と戦争』です。
 そうした社会的なメッセージは、やがて出会った丸木御夫妻がとてつもなく大きなものを持っていました」
 最初に佐喜眞さんが丸木夫妻に会ったのは、1984年のことである。前の年に妻の加代子さんとの間にできた最初の子どもを出産時の医療ミスで失い、そのときの悲しみからやっとぬけだそうとしているときでもあった。東京で丸木夫妻の講演会があり、「原爆の図」で有名だった丸木夫妻が、「沖縄戦の図」を製作しているとのニュースも聞いて大喜びし、佐喜眞さんはその会場に足を運んだ。
 丸木俊さんが壇上に立ったときである。
「沖縄の方に心から謝ります」
そうして深々と頭を下げた。第二次世界大戦で、沖縄は本土決戦のため時間稼ぎの捨て石にされ、さらには日本兵によって殺された沖縄人が少なくない。そうした事実を知っている俊さんの謝罪であった。
 そうした謙虚な姿に佐喜眞さんはいたく感動する。その俊さんは、過労もあって目やにの溜まる病気にかかって苦労していたが、それを佐喜眞さんの針灸で直したことがきっかっけになり、丸木夫妻と親しく付き合いがはじまった。
 やがて運命の日ともいえる85年11月のその時が来た。佐喜眞さんが、いくらか興奮気味に話してくれる。
 「その日、丸木位里先生から収納庫へ誘われました。そして沖縄戦を題材にした絵を私に見せながら、『佐喜眞さん、これをもらってくれるか?』と言うんですよ。驚いて真意か問い直しました。すると『あんたに託す。やってくれるか』とのことです。
 これは大変なことになったと思いましたが、すぐに腹を決め、『やらせていただきます』と即答しました」
 これだけの大作を、まさか自宅に保管するわけにいかない。多くの人たちに鑑賞してもらう施設が必要だし、それも絶対に沖縄になくてはならない。
 そこで佐喜眞さんは、沖縄に何度も足を運んで適当な場所を探すが見つからない。友人が県の平和資料館にも相談したが、収集は戦争のあった1945年の資料に限定しており、84年に作製した沖縄の図はここに展示する資格がないと断られた。
 結局は自らの力で美術館を造るしかないと判断する。それも協力してくれる沖縄の建築家の条件として、次の3点があがった。
 ① 心を癒す深い緑があること
 ② 沖縄の心と歴史をつたえる御願所(うがんじょ)や亀甲墓などがあること
 ③ 東シナ海の落日が望めるところ
 この条件にあう場所が意外な所にあった。佐喜眞さんが持っている軍用地の一部である。すぐにその場所に限定して返還してもらうよう交渉に入る。しかし、これがまた大きな問題であった。
 軍用地として米軍に貸している土地は、たとえ自分の所有地でも自由に使うことはできない。最終的には日米合同委員会で議論して決済が必要だが、そこの議題にのせるまでが極めて難しいことである。
 「2カ月に1回、沖縄と東京で開催される合同委員会の議題にかけてもらうため、どれだけ動いたかわかりません。まず日本の担当者に納得してもらはなくてはいけないので、その都度説明にいきましたが、『アメリカ側が返還を渋っています』とのことで、いつまでたっても議題にのせてくれません。
 そこである人を介して、直接にアメリカ軍の担当者に会って主旨を説明しました。すると、『ミュージアムができれば宜野湾市は良くなる。米軍は反対しない』というのですよ。
日本は独立国でアメリカと対等だなんて言っていますが、主人であるアメリカの顔色をいつもうかがうサーバント(召し使い)ですね。
 こうしてやっと建設の目処がつきましたが、最後まで日本の役人からはいやがらせを受けました。美術館の正面の道を斜めに切って利用しづらくしたのもその1つです」
そんなことがありながらも、92年12月の日米合同委員会で佐喜眞さんの要望が承認され、93年に財産返還通知書や美術館建設を認める書類が届いてやっとのことで着工し、念願の施設が完成したのは94年10月のことであった。
 佐喜眞さんは、美術館のパンフレットで次のように自分の考えを説明している。
「沖縄の植物たちは、台風のただ中に枝葉をひきちがれても、しなやかに揺れながら"根太く"成長していきます。しかし、鉄の暴風(沖縄戦)以後の変化は、あまりにも急激であります。私は、なんとしても、心が落ちついて静かに『もの想う場』をつくりたいと考えておりました」
限られた誌面の関係でこれ以上詳しく触れることはできないが、佐喜眞さんと同じ夢を一緒に見つつ、実現にいろいろな協力をしてくれたのは、妻の加代子さんだけでなく、建築家の真喜志好一(まきしよしかず)、宜野湾市の比嘉盛光(ひがせいこう)市長、在沖米軍海兵隊基地不動産管理事務所ポール所長などである。
 さらに、日ごろの美術館を維持することに協力する「佐喜眞美術館友の会」という制度がある。この会の目的は、美術館の運営を支援し、その活動を通じて、自己の精神の向上と、地域文化の向上を目指すことにしている。その会員には年会費3000円でなることができ、常設展や特別展が何回でも無料で鑑賞でき、講演会などの企画に割り引きで参加できる。
こうした友の会のメンバーは、現在500名になっており、地元のコープおきなわの組合員や職員も含まれている。

・ 各種のイベントを
 この美術館では、「沖縄戦の図」を中心とした絵の鑑賞だけでなく、さらに沖縄における新しい文化運動の1つの拠点になるべく、積極的に各種のイベントを展開している。2000年の6月以降でも、次のように多彩な企画が続いていた。
  赤土 類  舞踊  無為「阿座 昇(あ)ぐ」
  佐渡山豊LIVE  「ウチナーよ、ヤマトよ、アメリカよ」
  アート&ダンスユニットOP(オプ)公演 「ぐるぐるまわる」
  灰谷健次郎×田島征彦トークライブ
  田島征彦「お話と絵本読み語り」
 これまで取り組んだユニークなイベントの1つに、沖縄戦で殺された23万6095人にちなんで、その数だけの小石を集め、その表面へ順番に通し番号をかいたことがある。96年6月のことである。県立開邦(かいほう)高校の生徒の発案で、高校生だけでなく市民も協力した。そのときの状況を、ひきつづき佐喜眞さんから話してもらう。
 「暑い日の中で、まず小石を集めます。ビニールの袋に200個ずつ入れて全体の数にし、まず私が一番目を書き込みました。それからグループに分かれて、分担した番号を順番に小石の表面へ書き込んでいきます。
 生徒たちは簡単に完了すると考えていたようですが、数が数ですから、なかなか作業はすすみません。汗を拭きながら、延べで600人が丸4日かかりました。番号をかいた小石は、庭の中央に積み上げていき、最後の番号は、妻の加代子が6月23日に書き込みました。
殺された人が、23万6095人といわれても、何かピンときませんが、こうして小石の山をつくると、誰でも大変な数だと実感できます」
 確かに頭の中で考える数字と、小石にせよ形になったものを目にするのでは、受け止め方はまるで異なる。1つの小石を頭蓋骨として見れば、どれだけの人々が殺されていったのか実感できることだろう。
 こうしてたくさんの人の力で築いた小石の山は、さらに思わぬ効果があった。
 「完成した日の午後に大雨が降り、石の前に水溜まりができたんですよ。夜になって薄明かりに浮かぶ庭を見て、私たちは一瞬息を呑みましたね。水溜まりに小山が逆さまになって映り、ちょうど人の口のようになっていたのですよ。殺された人たちが、闇の中から何か叫んでいるようでドキリとしましたね」
 後でそのときのビデオテープを見せてもらったが、画面に映ったそれは、まさに物言わぬ石の口であった。
 つい最近は、材木に23万6095本の釘を打ちつけることもした。

 こうして佐喜眞美術館は、多くの人たちと一緒に、新しいコラボレーションによって、戦争や平和の問題を今日に問い続けている。
 
連絡先   佐喜眞美術館   〒901-2204 沖縄県宜野湾市上原358
                   電話 098-893-5737

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