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(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎
・ 伊江島を訪ねて
1月の沖縄那覇空港に降りる。いつもの青い空と海が迎えてくれた。空港から高速バスで本島の中央部にある名護で乗り換えて、東シナ海に突き出た本部半島の先端にある本部港に着く。那覇を出て3時間ほどかかっていた。
名護では、名物の濃いピンクの桜が咲き始めていた。日本で一番早く咲く桜で、2月には桜祭りが毎年のように行なわれることでも有名である。桜の花は想像していたが、道端にコスモスが咲き誇っているのには驚いた。
新しい本部港で船の出る時間まで待つ。夏の観光シーズンには混雑するかもしれないが、1月の平日でもあり、広い待合室はガランとしていた。
1日に4便の出航の時間が近くなり、まず車が数台入ってから利用者が乗り込んだ。小さな港を出ると、すぐに目の前に伊江島が見えてくる。左右に平地が広がり、中央にすっくと小山がそびえている。172mの城山で、地元ではイージマタッチューと呼び信仰の対象となっている。
30分ほどのフェリーの旅で、岸壁だけの伊江港に着く。総面積23k㎡で5400人が住む伊江島の海の玄関である。この小さな島は、第二次世界大戦の我が国における最初の地上戦が行なわれた場所であった。1945年4月16日に、島へ戦車80台と米兵1000名が上陸し、6日間にわたって激しい戦闘が繰り広げられた。
当時、島には3600名の村民と、ほぼ同じ数の日本兵がいた。全員が姿を隠すことのできる壕を島内にはりめぐらし、身を潜めていた。このため敵がいないと判断して上陸した米軍と、激しい銃撃戦となった。この戦闘で、日本側は兵2000人、村民1600人が殺され、他方の米軍は死者と行方不明を合わせて約300人となった。このときの激しい銃撃戦で、小さな島にある家屋はもちろんのこと、島中に生い茂っていた樹木も全て燃え尽きたとのことである。
取材を約束した時間まで少しあったので、島の中央にそびえる城山に登ることにした。民家や畑の続くなだらかな山すそを進み、中腹の展望台に着く。ここからは、ほぼ垂直の山肌をジグザグに登山道が頂上まで続く。急な道は20分ほどで頂上に出ることができた。途中から樹木もなくて岩肌がむき出しになっている。
頂上に立つと、360度の視界を望むことができる。島は東西に細長い楕円形で、山を取り巻くように整地された畑が広がっている。菜の花の咲く黄色の畑もあれば、作物によって濃い緑や黄緑もある。作物を植えてない畑は茶色と、まるで絵筆を走らせたような彩りである。島の中央には、戦争のときに造った8斜めに走る滑走路が今も2本残り、1本は伊江島空港で、他は米軍の飛行場である。その先の西端には、米軍の射爆演習場が広がっている。
島の周囲は、ライトブルーのサンゴ礁が取り巻き、その外側には東シナ海の濃いブルーが広がっている。この美しい海も、かつては激しい戦場となった。米軍は伊江島を占領してから沖縄本島への侵攻をすすめた。このため水平線が見えないほどの数の戦艦が伊江島の近くに停泊し、鹿児島県の知覧(ちらん)や鹿屋(かのや)などを、片道の燃料で飛び立った特別攻撃機が体当たりを試みた。その多くは、敵艦に突入することなくこの海のモズクとなった。
一人頂上の岩に腰をかけていると、戦争で殺された人たちの慟哭が、吹き上げてくる風にのって聞こえてくるような気がした。
伊江島の悲劇は、残念なことに戦争で終わることはなかった。戦後には米軍の演習による被害が続き、その基地撤去闘争は今も続いている。
・ 「ヌチドウタカラの家」を訪ねて
島の南東の海岸近くに、訪ねる「ヌチドゥタカラの家」がある。サトウキビ畑の横を進み、老人ホームの施設もある静かな場所の一角であった。
左右の門には、彫刻家金城実作の迫力のある大きなシーサーの面が飾ってある。敷地内の施設は、2つに大別できる。
1つは、事務所につながっている平屋の「やすらぎの家」である。畳敷きの部屋が廊下をはさんで4つあり、ふすまを外せば広い会場となり、150名ほどの人が座ることもできる。ここは障害者・健常者・高齢者・子どもたちが、お互いに助け合い、能力に応じて農作業などの生産に努め、心づくりや体づくりのための安らぎの場として1984年(昭和59年)に完成した。
そして2つ目は、庭の先に白い建物を使い反戦平和資料館の「ヌチドゥタカラの家」がある。人間の生命を粗末にした戦争の遺品と、平和のために闘った足跡を展示してある。入り口右の壁面には、以下のようにこの施設の趣旨を書いてある。
「平和とは人間の生命を学ぶことです。この家には、人間の生命を虫けらのように粗末にした戦争の数々の遺品と、二度と再び人間の生命が粗末にされない為に、生命を大切にした人々、また生命の尊さを求めてやまない人々の願いも展示してあります」
左の壁面には、より大きな字で次のように明記している。
「すべて剣をとる者は、剣にて亡ぶ(聖書)
基地をもつ国は基地で亡び、
核を持つ国は核で亡ぶ(歴史)」
壁の前には、米軍が伊江島の演習で使用したミサイルや砲弾などのいくつかを並べてある。左右の簡潔な文言を読めば、この資料館のねらいが理解できる。
ガラス戸を開けて中に入る。20坪ほどの室内に、天井から床までおびただしい数の資料が展示してある。その量にまず圧倒される。
左正面には、床一面に錆びた中小の砲弾などが数えることのできないほど積み上げてある。どれも伊江島の演習場で米軍が使用した弾である。その上には、白いペンキを塗った大きな円筒があり、模擬核兵器と表示してある。さらには天井からそのためのパラシュートが下がり、「核戦争準備はここまですすんでいます」とあり、この地で核兵器の投下訓練が行なわれていたことを示している。
我が国に非核三原則はあるが、日本に常駐する米軍は核兵器を使った訓練をしている。展示してある模擬核兵器を使用したのは沖縄が返還される以前であるが、日本の国内における米軍の核兵器については今も不明なことが少なくない。
模擬核兵器の横には、第二次世界大戦のときにB29が使用した大きな爆弾や、1955年(昭和30年)に農民が撤去した米軍基地の有刺鉄線が置いてある。
資料館を入った右には、棚と掲示板を使った展示コーナーがある。手前の壁面の前には、戦前に使っていた教科書や雑誌などを展示してある。全ての国民が天皇を絶対的な神と信じ、その神の指示に沿って自ら戦争の道を歩いていくように、学校や家庭などで教育していったのかわかるように工夫していた。
日本の各地に反戦平和の資料館はいくつもあるが、戦争を起こした原因を教育の分野から迫った展示は少ない。
戦争中の砲弾が飛び交ったときや、戦後になって農地を米軍基地に取り上げられて、食べ物もなく餓死者が出たころの衣服や食器などもある。こげ茶色となった血痕のいくつか付いた、小さな白い子ども服も飾ってある。布の破損の様子からして、かなりの怪我をしたか、もしくは殺されたのかもわからない。
ボロボロになった黒い衣服の横には、「戦争屋に着せたい」と書いてある。着替えもなく、洗濯することもできなくて、ずっと身に着けていた服だろう。金儲けをするために戦争を仕掛け、他人の不幸や命を気にしない戦争協力者に、ぜひとも着せたい一着である。
北海道の夕張炭鉱から届いた慰問袋がいくつも展示されている。1955年(昭和30年)のことである。農地を米軍基地に取り上げられた伊江島の農民は、その9割までが栄養失調となった。そうした状況を知った各地の人々から、たくさんの援助物資が届いた。その中でも、特に決して豊かでない夕張炭鉱で働く人からの量が多く、島民を大いに励ました。
一番奥の薄暗い場所に「無縁堂」というコーナーがあり、弾で穴の開いたヘルメットや古くなった人形などが棚に並んでいる。ここは戦争で犠牲になった日本の一般人や兵士だけでなく、死んだアメリカ兵の供養もするため、遺品をいくつも集めてある。一人でこの前に立つと、どこか地の底から、無念の死をとげた人たちのうめき声が聞こえてくるような気がする。
・ (財)わびあいの里とは
2つの施設を運営しているのは、財団法人「わびあいの里」である。1999年(平成11年)にこの財団が発信した「心の反戦地主」を呼びかける以下の文書に、切々と平和への願いを込めている。
「戦争の後片付けも終わってないまま日米両政府は、沖縄を半永久的に基地として利用するために、『人の心も命も金しだい』という考えでやってきています。戦前は『命は鴻毛より軽し。死んでお国のために戦え』と教えられ信じました。戦後、『命は地球よりも重く、この世の宝は命である』と分かりました。しかし、今は命よりも経済が大事というところにきています。基地撤去の戦いが、いつのまにか自分にとって損か得かという視点にかわっています。(略)
阿波根(あはごん)は、すべてをかけて平和造りに専念してきました。これからの子どもたちに安全で安心して暮らせる静かで平和な社会をつくらねば、と努力してきました。皆様の暖かいご支援のおかげで、今年財団法人として沖縄県から認可を受けました。当法人は、平和思想の啓発と普及を目的としています。この認可によって、法の上での平和運動と勇気と、自信、誇りをもっていけるようになりました。(略)」
「わびあいの里」では、1984年(昭和59年)に沖縄の戦争が終わった6月23日にまず「やすらぎの家」が完成し、第二次世界大戦を開始した12月8日に「ヌチドゥタカラの家」を開設した。ちなみに「わびあいの里」の名称は、京都にある一燈園の「ゆずり合い、詫(わ)びあい、助け合い、教え合い、共にいきること。その心をすべての人が持てば、きっと平和になる」という教えから命名している。
初代の理事長は創設者の阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんで、残念ながら101歳で2002年(平成14年)に死去された後は、読谷村の村長を長年されてから大田知事のもとで助役を務めていた山内徳信(やまうち とくしん)さんがなっている。
財団を維持する会員は、以下のように3種類あって、条件に応じて選ぶことができる。
維持会員 年間1口1万円
賛助会員 年間1口5,000円
会報購読会員 年間1口1,000円
沖縄県だけでなく各地からの支持があり、維持会員と賛助会員で約100名、購読会員で約200名が現在登録されている。
・ 阿波根昌鴻さんの歩み
「わびあいの里」を紹介するのに、阿波根昌鴻さんを抜きには語ることができない。
1901年(明治34年)に沖縄県で生まれた阿波根さんは、伊江島に渡って農業を営み、結婚して長男にも恵まれた。しかし、暮らしは苦しく、1925年(大正14年)に移民募集に応じて一人キューバに渡り、その後ペルーで働く。
1933年(昭和8年)に帰国した阿波根さんは、翌年静岡の興農学園に学んだ。農民が共同作業をしつつ社会科学や宗教を勉強することのできるデンマーク農民学校の設立を、一生の仕事にしようと決意して1934年(昭和9年)伊江島に戻った。
潮風を防ぐための防風林を育て、新しい農場は完成し、めざす農民学校がほぼできつつあったそうだが、第二次世界大戦による激しい空襲や地上戦によって全て破壊されてしまった。あわせて召集された一人息子が沖縄本島で戦死したことは、両親にとってこの上ない大きな悲しみとなる。
終戦となり、村外における2年の生活を終えて、阿波根さんたち島民が伊江島に戻る。戦争が終わり、これからは安心して農業ができるものとみんなは期待したが、島の面積の63%が米軍の基地となり、自分の畑に入ることもできない農民が多かった。
戦争の後遺症は他にもあった。米軍による日本の本土決戦のための膨大な弾薬が、まだ伊江島には残っていた。1948年(昭和23年)のことである。伊江島港での作業中に米軍の不注意で船に満載した爆弾が破裂し、102名もの死者を出す大惨事が発生した。
1951年(昭和26年)にサンフランシスコ講和条約が締結されても、伊江島における米軍の基地問題は改善されなかった。1953年(昭和28年)には、最初の土地接収通告があり、78万5000坪の土地使用と農民の立ち退きの通告があった。
翌1954年(昭和29年)には、150万坪の土地接収と150戸の立ち退き通告があった。その地域で生活している農民にとっては死活問題であり、当然のことながら立ち退き反対の動きとなる。
そこでアメリカは、完全武装した300名の兵士を伊江島に上陸させた。
「この島は沖縄戦でアメリカ軍の血を流して、日本よりぶん取ったものである。君達は、イエスでもノーでも立ち退かなければならない。君達には何の権利もない」
米軍はそう言い切り、反対する農民を逮捕して刑務所に入れるなどした。それでも阿波根さんを含めた農民の抵抗はやまず、むしろ基地反対の運動が島中に広がっていった。
後に94歳にもなった阿波根さんは、米軍用地接収の是非を議論する公の場で、以下のように当時のことについて触れている。
「62歳の並里さんが、土地を取られると畑の食べ物がなくなって、ママーもベビーも死んでしまうと、言葉の通じない米兵に死ぬ真似をしてお願いしたのに、5,6名の米兵が彼にたかって暴行した。私たちは、並里さんがもう死んだものと思って、名を呼びながら走って助けに行きましたが、アメリカに逮捕されてしまった。嘉手納に送って刑務所に入れると、用意した金網にブチ込まれてしまったのであります。
米軍が演習場を造る為に伊江島の住民152戸に立ち退きしろと言ったが、われわれが猛反対して、13戸に食い止めたのであります。が、アメリカはこの13戸の家を焼き払おうとしたので、『家を焼いてくれるな』と焼くのを止めたら、家をブルドーザーで壊して、家人たちをアメリカ軍の古い天幕を張っただけのテントに押し込んだのであります」
伊江島における長く苦しい基地反対の運動が本格化していく。家と畑を奪われた阿波根さんたち農民たちは、ノボリを立て、「安保条約によって、われわれの土地を取られた。家も仕事も食べるものもない。どうしたらいいか教えてください」と、沖縄本島の町や村を1年がかりで歩き通した。沖縄ではムンクーチャと呼ばれた有名な乞食行進である。
阿波根さんたちは、ひたすら非暴力による問題解決に努力した。その指針になったのは、以下の陳情規定である。
「反米的にならないこと/会談のときは必ず座ること/集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと/耳より上に手を上げない/大きな声を出さず、静かに話す/軍を恐れてはならない」
そして規定の最後には、「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が、軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切である」と明言している。
当時の交渉相手は、米軍と琉球政府であった。1972年(昭和47年)の沖縄返還によって、琉球政府が日本政府に替わったが、伊江島における米軍の演習場はそのまま残り、阿波根さんを含めて「伊江島土地を守る会」の取り組みは今日にまで続いている。
長期にわたる困難な土地を守る運動をしつつ、阿波根さんは創意工夫した取り組みを展開してきた。1961年(昭和36年)には、人材養成有志会をつくり、社会の仕組みや考え方などを学ぶため、島の青年が東京の中央労働学院で学ぶことができるようにした。1966年(昭和41年)には、65歳の阿波根昌鴻さん自身も1年近く上京して学んでいる。
そして1967年(昭和42年)には、本島よりも物価が高い島民のために、伊江島生活協同組合を設立した。70坪の土地に鉄筋コンクリートで3階を建て、1階と2階を店舗とし、3階は集会や宿泊が可能な場として活用した。
1973年(昭和48年)には「米軍と農民」、1992年(平成4年)には「命こそ宝」をそれぞれ岩波新書から出版し、多くの人々に今も愛読されている。そして「やすらぎの家」と「ヌチドゥタカラの家」の設立のため、たくさんの労力と私財をつぎ込んだ。
晩年は目や足腰が不自由になったが、全国各地から阿波根昌鴻さんを訪ねてきた人たちに、健康が許す限り平和を語り続けた。子どもたちに阿波根さんが、わかりやすく話した言葉である。
「平和憲法を世界中に広め、地球上から武器も戦争もなくしてしまう。そして、資源や富を全ての人々で平等に分け合い、それぞれの能力に応じて働き、必要なものを必要なだけ、感謝の気持ちで受け取れるような社会になるまで、私たちの平和運動は続けるのです」
「5本の指、いつも仲良く助け合って共に働く。指に学びましょう」
「学校でやっている勉強はね、卒業証書をもらうための、自分が良くなれば良いという勉強。それも大切だが、もっと大事な勉強は平和学習。人を幸せにして自分も幸せになるための平和学習をしましょう」
2001年(平成13年)に100歳を祝った手ぬぐいには、感謝とお礼として次のように書いてある。
「皆様の御理解と御支援のおかげで、百歳になるまで平和運動を続けて参りました。心より感謝申し上げます。
だが、まだ平和が見えません。これからの、さらなる団結と結集を、心より期待します。
私は、その平和を確かなものにするため、百二十歳まで生きたい」
日本のガンジーとも称された阿波根さんは、101歳で亡くなるまで平和な社会に一歩でも近づくことを強く願っていた。永眠する直前に、アフガニスタンでの戦争などを憂い側の人に伝えた言葉がある。
「平和が見えない。あの世にいっても平和運動しなければならないのか」
どこまでも平和を求めた信念の人であった。
・ 謝花悦子さんの願い
阿波根昌鴻さん亡き後の「わびあいの里」を守っているのは、それまで長年側で支えていた謝花悦子(じゃはな えつこ)さんである。1938年(昭和13年)に沖縄で生まれ育った。第二次世界大戦の最中に、見習医師の不適切な処置によって両足が不自由になり、今も2本の松葉杖を離すことができない。それでも軽自動車に乗るなどして、活発に動いている。
伊江島生協を阿波根さんが作ったとき謝花さんは、店長を任されて重要な職務をこなした。生協や物販についての知識や経験はなかったが、建物の基礎を造る段階から立ち会い猛烈に勉強して働いた。小さな店舗のため、人件費を節約するためにも、店長がいくつもの役をこなさなくてはならない。商品の発注から仕入れの仕事もあれば、レジにも立たなくてはならない。食事を座ってゆっくりする時間がなく、レジ台の前で作業しつつお握りを口に入れるような状態であった。那覇市で生協の会議があると、謝花さんは代表で出かけた。当時は高速道路もなく、2時間の会議のため伊江島から丸2日がかりであった。
商品の仕入れも苦労が多かった。伊江島生協が小規模なため、欲しい商品の数が注文の最小ロットに足りず、やむなく他の生協と一緒に発注した。届いた商品は那覇で分け、車で伊江島へと運んだ。
まさに身を粉にして謝花さんは働いたが、ある人から「人間が倒れるか、生協が倒れるか」と危惧される状態は、いつまでも続くことはなかった。残念ながら1991年(平成3年)に伊江島生協の旗は降ろさざるをえなくなったが、協同組合の精神は地域の人々に残り、現在のコープおきなわの共同購入における高い組織率へとつながっている。
現在謝花さんは、(財)「わびあいの里」の常務理事として多忙な日々をすごしている。「ヌチドゥタカラの家」を全国から訪ねてくるグループや個人は、阿波根さんが亡くなってからも減少していない。このため、訪ねてきた人たちへ平和の話や、食事の要望があればその準備をしなくてはならないこともあり、時間はいくらあっても足りない。毎朝5時には起て、夜遅くまでいろいろな活動をしている。
訪ねた日に、兵庫県の保育園関係者40名と神奈川県の平和グループ15名が来て、謝花さんの話があった。
「最近の日本を見ていると、無知の怖さをつくづく感じます。知らなければ、悩むことはないので楽です。でも戦争のために、たくさんの愚民を作っています。知らない間に、私も愚民になっています。
戦争のときに弾で死んだ人数よりも、教えられた教育で喜んで死んだ人が多くいます。平和の武器は学習です。だますな、だまされるな。平和運動は、人間をつくることです」
謝花さんの力強い声が会場に響いた。生前の阿波根さんによく似た力強い口調で、大切なことを噛み締めるように話していた。
施設の側には畑があり、一年を通して無農薬で野菜の有機栽培をし、ここでの食事に利用している。いただいた煮物に入っていた大きな人参は、それは甘かった。放し飼いで育てているニワトリの産んだ卵は、殻を割ると弾力のある黄身が盛り上がっていた。こうした畑やニワトリの世話も、謝花さんは他の人たちとしている。
「おじい(阿波根)が亡くなって3、4カ月は、全く何もする気にならず、誰にも会いたくありませんでした。するとある時、おじいの声が耳元で聴こえてきたのです。『"戦争屋"(戦争で儲ける人や組織)を喜ばせてどうする。日和ってどうする?』
おじいは、いつも私と一緒にいてくれることがわかり、また元気になりました」
阿波根さんの願いをきちんと引き継いだ謝花の明るい顔があった。
・ ゆずり合い助け合い学びあう会
(財)「わびあいの里」では、平和を作る武器は学習であるとして、2000年(平成12年)以来これまでに3回の平和学習会として、「ゆずり合い助け合い学びあう会」を島で開催してきた。
第3回は、2004年3月20日と21日に伊江島の農村環境改善センターで開催となり、島民だけでなく遠くの県からも含め180名が参加した。このときの呼び掛け文である。
「平和を求める人々の声は、戦争で利益を得る者の力によって押さえつけられようとしております。大多数の国民の反対を押し切り、イラクへ日本の自衛隊が派兵されることが決まりました。その根拠として『国益』等という言葉が平気で使われる今、私たちはもう一度その原点である『ぬちどうたから(命こそ宝)』に立ち返るべきであります」
国連を無視した米軍のイラク攻撃から1年目となった初日は、ひめゆり平和祈念資料館の語り部による基調講演のあと、夕食を兼ねて島唄や三線による交流があり、その後で次の5つの分科会で熱心な話し合いをもった。
① 伊江島戦跡マップの作製を通して
② 阿波根昌鴻と伊江島の闘いを語り広げる
③ 阿波根昌鴻の伊江島の闘いの背景(思想と実践)
④ 平和運動のために資料館をどう生かすか
⑤ 僕達が感じる伊江島(子どもの視点から)
2日目の翌日は朝から全体集会となり、最後に以下のような平和アピールを確認して終わった。
「『平和を望む者』だけで終わるのでなく、『平和をつくり出す者』になることが必要。平和のために『ゆずり合い、助け合い、学び合う者』となることを誓おう」
平和運動の原点を問いかける大きな発信が、沖縄の小さな伊江島から今も続いている。
連絡先
財団法人 わびあいの里
〒905-0502 沖縄県国頭郡伊江島字東江前2300-4
電話 0980-49-3047
