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(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎
・ 咲き誇る平和のバラ園
通りに面した300坪ほどの畑に、ピンクやオレンジや純白のバラが何本も咲いている。5月の明るい太陽の日ざしの下で、それぞれの花びらが光り輝いていた。下草はていねいに取り除き、子どもの背丈ほどにそろえたバラの木には、手のひらほどの大きさに開いた花がいくつもついている。
バラ園の中には小さな通路があり、道路から自由に入っていくことができた。道に面して「平和のバラ園」との表示があり、その下には、「カズエのバラ」、「アンネのバラ」、「ピースのバラ」と書いてカラーで撮ったバラの写真と解説の文字を添えてある。
「アンネのバラ」については、私も以前に聞いたことがあった。かつてナチスによって殺されたアンネ・フランクを記念したバラである。彼女の名前は、第二次世界大戦中にナチスの迫害を受けながらも、隠れ家で家族と一緒に息を殺して生きていく日々をつづった「アンネの日記」で有名である。太陽の下で自由に遊ぶこともできず、やがて秘密の場所が見つかって他のユダヤ人たちと施設に送られて殺されてしまう。
オレンジ色した可憐なバラの花びらは、周囲がいくらか濃くなっている。このバラを広げ、アンネを偲びつつ平和な社会を目指す一つのシンボルとしている。
ピンクの「カズエのバラ」は由来がわからずに解説文を読んだ。1977年にアメリカ軍のファントム戦闘機が神奈川県の民家に墜落し、1歳と3歳になる2人の子どもを殺した事故があった。同じ事故で体の8割を焼けどを負い、やがて亡くなった母親の林和枝さんのために創ったバラとのことである。
説明文を読んでいるうちに、そのときのニュースなどを私は思い出した。全身に火傷を負った小さな男の子は、お父さんと一緒に歌っていた「ポッポッポ、はとポッポ・・・」を口ずさみ、「パパママ、バイバイ!」と言いつつ息を引き取った。いち早く現場へ飛んできた自衛隊のヘリコプターは、全身に焼けどをした親子はそのままにし、パラシュートで脱出したアメリカ兵を乗せて飛び立っている。そのとき同じ年頃である2人の娘の父親となっていた私は、ニュースを聞いたときに我が子に置き換え、激しい怒りを感じたものである。
そして母親の和枝さんである。全身にひどい火傷を負って自分で皮膚の再生ができず、5センチ四方の皮膚の提供を全国に呼びかけ、かろうじて生きていた。そうした必死の努力にもかかわらず、4年後に亡くなってしまう。
そうした和枝さんの無念さを忘れず、再び同じような悲劇が起こらないようにと願い、彼女の父親が専門家に依頼して創ったバラであった。
あたりに漂う甘酸っぱい香りに誘われて、バラ園の中に入っていく。奥で一人の女性がバラの手入れをしていた。私があいさつをすると、静かな笑顔で「どうぞご自由にご覧ください」とのこと。優しい心遣いが、あたりで咲き誇っているバラとよくマッチしていた。後になって、「のむぎ」の主宰の一人であることがわかった。
平和を守るためには、人と人が殺しあう戦争に反対するだけでなく、美しく咲いた花をゆっくりと愛でる気持ちを広げることも大切なことだろう。そんな思いをしているときであった。突然の轟音に上空を見上げると、近くの米軍基地から飛び立った戦闘機が空を裂いていた。
これから訪ねる不登校の子どもたちのために設立した「のむぎ」で、みんなが心を込めて育てているバラである。
・「のむぎ」を訪ねて
渋谷から田園都市線に30分ほど乗り、神奈川県に入ってすぐの青葉台駅で下車し、今度はバスで約15分走り、緑の多い住宅地の一角で降りる。地図を頼りにして、しばらく歩く。バス停から少し進むと、あたりはすぐに水田が広がり、民家はまばらになる。青い空には白鷺が数羽ゆっくりと舞っていた。
道はやがて畑を過ぎ、なだらかな坂を登っていくと、20分ほどで目的の「のむぎ」の建物に到着した。学校とは聞いていたが、個人で経営しているので、いったいどれほどの施設なのかよくわからない。それでも地図に示してある場所に、大きな民家風の二階建ての建物があり、大きく「のむぎ」と2階の壁と玄関の上にも書いてあったのでわかった。敷地面積は100坪ほどある。
大小の靴がいくつも並んだ玄関から入る。20畳ほどの板敷きの居間があり、手前の半分ほどを使って、低い会議用テーブルの前に座って、数名の生徒が本を読むとか書き物をしていた。
校長役をつとめている樋口(ひぐち)義博さんから話を聞く。1948年に長野で生まれた樋口さんは、笑顔を絶やさず「のむぎ」について優しく話してくれた。
「私たち夫婦は、子連れ同士の再婚なんです。どちらも都内のある高校で長年教えていましたが、まず長女が学校へ行かなくなり、その後に今度は次女も同じ状況になりましてね。それは悩みましたよ。何が原因でそうなったのかとか、教師でもある私たちは、親としてどうすればよいのか何回も相談しました。
それでもどうしてもわからずに、最終的たどりついたのは、私たちの家庭の中だけで考えていても解決しないということです。そこで近くの子どもを呼んで、長女と一緒に勉強できる場をつくりました」
日本の学校では、画一化した授業や校則によって、生徒たちを一つの型にあてはめようとする。ところが樋口さんの娘さんたちは、個性を大切に守るため、自分の考えに沿って素直に行動した。そのことが原因でいろいろなトラブルにも発展していき、やっと入学した高校も1年で退学してしまう。
その間に悩んだ樋口さん夫婦は、地域の仲間の人たちにも相談した結果、夫婦だけで家庭の中のみで子育てするには限界があり、全部をさらけ出して地域で育てていくことが何よりも重要であり、そうした環境がなければ自分たちでつくることを決意した。そこで自宅の6畳を使って、手探りで独自の学びの場をつくった。1982年のことである。
そのときに作った「のむぎ」の設立趣意書では、次のように「地域の新しい教育力の創造」に触れている。
「地域(環境)そのものが大きく破壊され、子どもの育つ生活基盤そのものが揺らいでいる現状では、今までのような環境を取り戻すとか、不足を補うとかいう問題ではなくなってきています。地域そのものを新しくどう創るか、という新しい地域づくりを考えていく事と教育を考えていく必要に迫られています。さらに大人達はどうかといえば、子どもたちの為に大人社会(地域)を創っていく必要があるでしょう。そして子ども達に対しては、自らも含めてまわり(地域・社会)を仲間達と共に変革して、幸福(人間らしい生活)を勝ち取っていく力をつけてほしい、民主主義日本をつくりあげる力をつけて欲しい、と願っていく必要があるでしょう。(略)
今こそ学校・家庭・地域の人々が手を結び、自らの手で地域を守ると共に、愉快に楽しく夢のある地域を創造し、そして主体とならなければならないでしょう。そのための一翼を担う、文字どおりの地域のセンターになりたいと思います。(略)」
既存の教育の補完ではなく、地域に根ざして1人ひとりが「生きる力」を身に付けることの重要性を高らかにうたいあげている。
なお「のむぎ」の名称の由来は、熊笹を意味する野麦からきている。熊笹は、険しい山の中でも大地にしっかりと根を張り、強く生きている。昔の貧しい山村では、10年に1回は凶作となって食べ物を採ることができず、農民たちは大変に苦労した。そうしたときに、なぜか熊笹は実を付け、それを粉にして地域の住民は飢えをしのいだ。民謡「会津磐梯山」で歌う「笹に黄金」がそうである。
そうした強さと優しさを備えた熊笹に、新しい学校のイメージを重ねて「のむぎ」と樋口さんが名付けている。
それからというもの「のむぎ」では、次のような多彩な取り組みを、樋口さん夫婦を中心に試行錯誤しつつ展開してきた。
行事:地域の境界線上を課題に挑戦しつつ歩くリモ・ウォーキング、体験学習(夏休みの1週間、小・中学生の全自炊の冒険教室)、スキー学校、スケート教室、おもしろ運動会、夏祭り、バザー、ファミリィーキャンプ、ハイキング、平和コンサート、区民祭りなど地域の諸活動への参加、ひぐりん(樋口義博先生の愛称)講座(社会発展史、平和など)、教育懇談会、高校中退の親の会、「非行」と向き合う親たちの会、発表会、シンポジウム、講演会、映画会。
日常活動:のむぎ幼児部「どろん子」(週5回)、のむぎ学級(小学生、週3回放課後)、のむぎっ子(小・中・学生グループ)、若者グループ(中学卒業以上)機関紙・地域新聞の発行。
こうして地域の異年齢集団ができ、登録者は300名をこえるほどになった。
やがて1991年となり、「子どもたちや親の切実な願いを受け止める場」であり、「高校中退者や生きる道に迷う若者を受け止める学びの場」として「のむぎオープン・コミュニティー・スク-ル高等部」(略してのむぎOCS高等部)を設立し、それから今日までここで学んだ若者は100名をこえている。
・ 「のむぎ」の概要
では次に「のむぎ」の概要をみてみよう。樋口さんからいくつもの資料に基づいて説明を受ける。
「正式には、のむぎ地域教育文化センターと言い、特別な法人格はまだ取っていません。NPO法人や協同組合化などを考えたこともありますが、無理して法人化することによるメリットをあまり感じませんので。
大きな方針は、年1回の総会で協議して決め、その下に15名ほどのスタッフによる運営委員会があり、そこには事務局と機関紙の実務を分担する部署があって進めています。
『のむぎ』の代表的な活動は、1991年からスタートさせたオープン・コミュニティー・スクールです。今では、『どろん子』と呼んでいる幼児部をはじめとして、小学校にあたる小等部、中学校にあたる中等部、高校に相当する高等部、そして高等部を卒業した人たちを対象としたアカデミーも運営しています。
こうした学校の生徒の他に、地域の子どもたちも交えて、中学生以下の子どもたちで作る『のむぎっ子』や、それ以上の歳の子どもたちで作る『若者会』がありますし、約80名の父母たちで全体を応援してくれる『支える会』もあります」
一度聞いただけでは、すぐに「のむぎ」の全体像を理解できないほど多彩な取り組みをしている。いくらがんばったにしても夫婦だけの力で運営するには、本当にできるのだろうかとふと疑問がわく。その点が気になってたずねると、幼児部には保母の資格を持った人がいるし、また「のむぎ」の卒業生がスタッフとしていろいろな場面で運営に直接関わっているとのことであった。
現在の生徒やスタッフの人数は次の通りである。
生徒:幼児部 13名 小等部 2名 中等部 4名
高等部 アメリカ留学に4名 アカデミー 8名
スタッフ:樋口夫婦 「のむぎ」卒業生7名 保母1名
まずは人数の一番多い幼児部について、引き続き樋口さんから説明を受ける。
「こことは別の場所の施設を使い、月曜から金曜までの8時半から5時までの間、0歳から学校へ入る前の子どもたちを預かっています。よく小さな子どもに、『きれいにしなさい』とか『お行儀よくしなさい』と言っている大人がいますが、ここでは仲間との遊びを通して心と体を鍛え、豊かな感性を磨いて生きる力を育てたいと願っています」
もらった案内書では、「水と土と太陽のもと、子どもの全面発達を保障する」とあった。近くにある野山の自然も使い、集団で楽しく遊ぶことを通して、人間として成長していく大切な基礎を育んでいるようだ。
次は、小・中・高等部についてである。
「ここでは学ぶことによって、1人ひとりが生きる力を身に付けることに目標を置いています。ここで言う生きる力とは、平和を愛して民主主義を大切にし、併せて自らが変革の主体となって、他人に生きさせてもらうのでなく、自分の手で未来を切り拓こうとすることです。
このため、これまでの学校の枠をこえて、仲間である生徒自らが人間味のあふれて楽しくなる学校を目指し、日本の各地を仲間と一緒に旅してたくさんのことを学ぶとか、平和や人権の学習を大切にして、そこで学んだことを和太鼓の演奏などにも活かしています」
平和行脚として、横浜から長野まで300kmの徒歩の旅もそのひとつである。20日以上もかかる長旅を、仲間とお互いに支え合って目標をやり切る。普通の学校生活では得ることのできない力のひとつだろう。
通常のときは、月曜から金曜まで、9時半から3時の間が勉強の時間である。講座もあるし、ユニークな授業では600字程度の新聞のコラム記事を、原稿用紙にしっかりと写し取り、後でその要点を語らせる書写がある。理解力のアップに効果があるそうだ。
また、その子が理解するまで勉強は続けるし、成績の順位を付けて競争させる必要もないので、テストが一切無いことも特徴のひとつである。
・ 平和への旅
「のむぎ」における生きる力の学びとは、一般の学校で重要視しているような知識を暗記することよりも、自らの足と頭を使い考えることに重きを置いている。このため、いくつも「のむぎ」独自のユニークな取り組みがある。
その一つが、毎年5月に横浜から長野県でも新潟県に近い小谷(おたり)村まで歩くことがある。全行程は300.9kmもあり、途中は全て自炊とテントでの生活だから、今のような車社会においてはすごいの一言につきる。
それにしても、どうしてそれほどの長距離を歩く旅となったのだろうか。
「一人では絶対にできない大きなことを、みんなで力を合わせて実現することができれば、そのときの満足感や達成感ははかり知れないものがあります。でも根性を養うわけではないので、歩くという生徒の誰もができることで、どれだけ長い距離に挑戦できるか考えました。
他の学校で、一昼夜歩くとか、もしくは数日歩くことは時々どこかで行っています。それでも集団で、自炊とテント生活をしながらの長旅はありません。自信を失っている子どもたちが、自分を探しながら、一人の人間としての誇りをもつことができる企画にしようとしたのです」
当時のことを思い出しつつ楽しそうに話す樋口さんである。「のむぎ」のみんなで行程のルールを次のように作った。
① バテてしまったら途中、皆で休めばよい。
② 帰りたくなったら帰って、また合流すればよい。
③ 日数や時間に縛られることなく、困ったことがあれば皆で頭を寄せ合って、考えて解決すればよい。
こうして出発した最初の一行は、樋口さん夫妻の他に6名のスタッフと、高等部の一期生21名、そして8歳の犬1匹の集団である。各自は、タバコ係、ごみ係、荷物係、フーズ係、カメラ係、旗持ち、犬係を分担し、さらには自炊道具やテントなどを運ぶための大カート2台と小カート2台は、その都度押す担当者を決めた。1991年の5月のことである。
各自は10kgから15kgのリュックを背負い、1日に15kmほど歩いた。足に血豆ができ、雨の中の行進もあって風邪をひいて発熱するなどトラブルは続出する。ときにはキャンプ場の機材を壊した生徒もいて、あわや行進そのものを中止しなくてはならないような事態も発生した。
それでも23日かけて目的地にやっと着き、長野の山荘での集団生活を楽しんで神奈川に帰ってきた。
参加した一期生のある17歳の女性は、感想文で次のように自らの成長に驚いている。
「私が完歩できたのは、わたしだけの力ではないと実感している。先生方をはじめ、仲間がいてくれたからこそ、私はピカピカと輝いて山荘の汚ねえドアをくぐることができた。私は、本当に大きく成長したと思う。トリップに参加して自分の中で何かが変わるとは思ってたけれど、それは想像以上だった。変わったことの中で一番大きいのは、自信ってことである。(略)不可能なことなど何もない」
翌年は、スタッフなしで同じコースを一期生とニ期生で歩き、それ以降も工夫をこらして毎年のように歩いている。
・ 平和太鼓
「のむぎ」の代表的な取り組みの一つに、和太鼓による力強い演奏がある。2002年5月のことである。400人の入る地元のホールを満席にして、第1回「平和のバラコンサート」を「のむぎ」が主催した。この大半が和太鼓による演奏である。
第1部の「平和のバラ『カズエ』」は、幼児部どろん子による第1場「どろん子まつり太鼓」でスタートした。1977年の米軍機墜落の事故で亡くなった2人の子どもたちと、同じ歳の子どもたちの演奏である。舞台に立てた5個の太鼓を、揃いのはっぴを着た子どもたちが、3人一組になって取り囲み、トントコトントコと小さなバチで叩く。背丈の低い子どもは、胸のあたりまで太鼓の高さがあり、バチを当てるにも大変である。それでも頭の前で絞めた手ぬぐいが凛々(りり)しい。
子どもたちの次は、若い母親たちによる太鼓演奏であった。最初は、たすきがけし髪にバラをさしたお母さんたちによる創作太鼓「おかあさん」を叩く。子育てと同じく、あるときは子どもをあやすように優しく、他のときは叱るように力強くバチを振り下ろす。
続く創作太鼓「三寒四温」では、太鼓を高い台の上に乗せ、両足を大きく開いた女性のスタッフとアカデミー生たちの演奏である。春先の暖かさ寒さを繰り返しつつ春を迎える様子を表現していた。
そしていよいよ創作太鼓「平和のバラ『カズエ』」となる。「訴え」「事故」「嘆きと叫び」「怒りと決意」の四部構成で、「のむぎ」の生徒たち全員による演奏に、途中でトランペット・サックス・ピアノが加わる新たな試みであった。
休憩の後の第二部は、2002年に101歳で惜しくも亡くなった反戦地主の阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんを追悼する「平和のひびき」である。まずはみんなで智恵を出して作った平和宣言文を読む。その一部である。
「平和は、学び、行動しなければ勝ち取れません。一人の力は小さくても、みんなで一緒にがんばれば、それはとても大きな力になることを私たちは<のむぎ>で学んできました」
その学んだことを太鼓に託して、若さを順番に爆発させた。「ぶち合わせ」「走楽」「かがり火太鼓」「長良清流のぼり打ち」「三宅太鼓」「秩父屋台ばやし」、そして7期生が卒業に際して制作した創作太鼓「沖縄」へと続く。
やっとのことで3時間の演奏が無事に終わり、会場は大きな拍手の渦となった。ある63歳になる女性の観客の感想である。
「太鼓とトランペット、ピアノなどのバランスの良さに感動しました。また、心地よくひびきあっていてお腹にひびきました。また、ちびっ子たちのかわいいバチさばきは最高です。みなさん、太鼓を楽しんでいることがよくわかり、また語りかけてくれているようにも思った。みなさん精一杯情熱をかけて取り組んでいる姿が目に浮かび、まぶしく感じました」
この初めてのコンサートに大きな反響があり、同じ年の秋に別の会場で再演したときは700名もの観客が押し寄せた。
再び樋口さんに太鼓のことについて聞く。
「高等部の日本文化に触れる授業で、太鼓を取り入れたことが最初です。それでも当初は、太鼓を楽しくたたいている子がいても、のらなくて寝ている子どももいました。
それでも近くに住んでいる『日本のうたごえ』の方から、本格的に太鼓を学んだことから急に広がっていきました。やがて若者たちは、太鼓を上手く打つのは、『技じゃない、心だよ』と言って全国各地で熱演しています」
それ以来、「のむぎ」における太鼓の演奏が急激に上達していった。
・ 人と人のつながり求め
「のむぎ」では、人と人のつながりを求めて他にも創意工夫した取り組みを展開している。
その一つが、地域の境界線の上を歩くリモ・ウオーキングである。初めて聞く言葉で、まるでイメージが私はわかなかった。樋口さんから説明してもらうしかない。
「リモとは、国際的な共通語として期待されているエスペラント語で、隣の市町村との境界線のことです。この青葉区で周囲約50kmあり、きちんと標識があって、道や尾根になっているところもあれば遊歩道が続いている場所もあります。そうした境界線は、どちらの行政の中心からも離れ、開発が遅れて意外と自然が多く残っています。
こうした境界線の上を歩くと、その地域が浮かび上がって、文化や環境問題などを知るきっかけにもなるのです」
小さな子どもも一緒に歩くため、一度に50kmは無理で、1年間を3~5回に分けて歩く。それもただ歩くだけでは楽しくないので、「のむぎ」の生徒たちが手分けし、コースにいくつものポイントを作り、参加者はそこでの課題に挑戦しなければならない。
お猿のカゴ屋となってカゴをかつぐとか、アニメ「トトロ」の猫バスを登場させることもある。または若者がカッパの格好をし、民話からとった質問をすることもあり、毎回のように異なった演出をしている。
このリモ・ウオーキングには毎回100人ほどが参加し、すでに20年近く続き、それだけたくさんの人たちが、地域を見直すきっかけとなっている。
「おもしろ運動会もそうです。小学校の校庭を借り、大人も子どもも独自の競技で一緒に楽しみます。例えば、畳投げがあります。古くなった畳をもらってきて、それをどれだけ遠くへ飛ばすことができるのか競争するのです。4人で組みになることもあれば、一人で投げる人もいます。重いので、それは苦労しますよ。
子どもの三輪車を使った競争もあります。足の長い大人がモタモタしている側を、小さな子どもがスイスイ追い抜いていきますので、子どもたちは大喜びです」
勝ち負けを競うのでなく、子どもを含めて誰もが楽しむことのできるユニークな運動会を毎年のように運営している。
型に押し込めず、人と人のつながりを強め、一人ひとりの個性を大切にした「のむぎ」の共に育つ共育がすすんでいる。
連絡先 のむぎ地域教育文化センター
〒227-0031 横浜市青葉区寺家112
電話045-961-6696
主宰 樋口 義博
ホームページhttp://www.nomugi.com
