当サイトは私西村一郎のルポ及び著作物、ボランティア活動等の紹介ページです

『生活協同組合研究』誌2006年2月号「協同の実践」原稿
市民が支える反核・平和の絵画
―「原爆の図 丸木美術館」の祈りー 2005年12月21日
(財)生協総合研究所 研究員 西村一郎
・ ひろしま忌(き)
「はい、こちらで灯ろうに絵を描いてください。みんなの願いがかないますように。夜になったら、ローソクを立てて下の川で流しますから。きれいですよ」
ボランティアのスタッフが、汗を拭きつつ大きな声で呼びかけている。集まってきた親子連れなどは、灯ろうの横に貼った白い紙に、思い思いの絵や文字を筆で書いていく。黄色の花や真っ赤な太陽もあれば、黒で平和や戦争反対などとと大きく書いたものもあった。
「最初の組み立てから作りたい人は、ここに材料はありますからね」
20センチ四方ほどの板の四隅に、4本の細い棒を立て、それに白い紙を巻き付けると完成する。小学生でも見よう見まねで作ることができる。
やがて100本ほどの色とりどりの灯ろうができあがった。
2005年8月6日のことである。埼玉県にある丸木美術館の前にある広場では、恒例の「ひろしま忌」が今年も開催となっていた。
灯ろう作りの後は工作教室が開催となり、親子の約30名がミニ壁掛けに挑戦した。バナナの樹皮の繊維を使って編んだものに、マジックなどを使って好きな絵を描き、それにヒモを付ければ、世界で一つしかないオリジナルの壁掛けのできあがりである。
4時になったが、真夏の太陽の日差しはまだきつい。帽子やハンカチなどを頭に乗せた参加者たちは、「戦争は永久に後始末はできない」と題した評論家の吉武輝子さんの話を聞く。かつての日本が仕掛けた戦争で、まだ歴史の表舞台にきちんと出ていないことがいくつもあり、たとえばサハリンに棄民された日本の女性も少なからずいる。長年の取材で得た事実を静かに紹介していた吉武さんは、最後にハンドベルで「赤トンボ」をゆっくりと演奏し、参加した一人ひとりの心に知られざる歴史の歪みを刻んでいった。
5時からは場所を美術館の2階に移した。「原爆の図」の前でまずチェロで「鳥の歌」の演奏があり、次に法衣の浅川熙信(あさかわ きしん)さんの声明(しょうみょう)へと続いた。仏様の教えをゆっくりと詠う渋い声が、ホールを取り囲んでいる50名ほどの参加者の胸と、聴衆者が背にしている原爆の図にゆっくりと染み込んでいく。
6時になった。本日の主催者を代表して丸木美術館の役員から挨拶があり、遠くから来てくれた人たちに対するお礼と同時に、残念ながら財政的に危機になっている現状をふまえ、ぜひ一緒にこの美術館を存続させて欲しいとの呼びかけがあり、参加者の温かい拍手で確認された。
その訴えは、すぐ後で登場したアカペラグループによる名曲「アメイジング・グレイス」によってもより確かなものになった。
6時半になると夏の太陽も沈み、いくらか涼しくなると同時にあたりには夕闇がせまってきた。参加者は灯ろうとロウソクを持って、美術館のすぐ下を流れる都畿川(ときがわ)に降りていく。河原に着くと灯ろうにセットしたロウソクに火を灯し、小さなせせらぎに乗せる。やがて100本の灯ろうは、一つずつ流れていった。
灯ろうを見送った人たちは、次に美術館の前にある木造の野木庵(のぎあん)の大広間に入る。やがて現れた和泉舞(いずみ まい)さんの姿を見て息を飲む。「原爆の図」のスライドをバックにしてクラシックの音楽が流れ、白い和服で登場して静かに踊りだす。優雅に流れていた腕が、急に激しく闇の中を波打ち、静寂や慟哭の世界をリズミカルに見せてくれる。ライトが交差する中で、原爆の図が訴えている叫びを、体全体で表現していた。
こうして202人の一般の来館者と40名のボランティアによって、今年も有意義で楽しい「ひろしま忌」の一日が終わった。
遠くは石川県から訪ねてきた女性の感想が、翌日の地元新聞に掲載された。
「本物の原爆の図は重みが違います。核兵器の悲惨さを伝えるために、ぜひ子どもたちにも見せたい」
今も「原爆の図」が、各地の平和を望む人々をつないでいることがよくわかるイベントであった。
・ 丸木美術館を訪ねて
池袋から東武東上線の急行に乗って、都心から西に向かう。密集したビルや家屋の間を
走っていた電車は、やがて窓の外の空間が大きく広がり、収穫の終わった畑や紅葉の進む木々を見ることのできる郊外へと進んだ。
約1時間で目的の「森林公園」駅に着く。駅周辺に大きな建物はなく、広い駐車場がいくつもある。丸木美術館には徒歩で向かうこともできるが、それでは50分もかかり約束の時間に遅れてしまう。レンタルサイクルでもあれば、帰り道も便利かと考えたが、それらしき施設は南口にない。やむなく駅前のタクシーに乗って丸木美術館を目指す。
しばらくタクシーは広い道路を走っていたが、何回かカーブした後は、雑木林の間の車1台がやっと通ることのできる小さな凸凹の多い道に入っていった。運転手さんも、「へんぴな場所にある美術館ですからね」と話していたが、まさにそうである。それにしてもこれだけ交通の不便な場所に、全国各地から今でも見学者が続いているからすごい。
10分ほどで丸木美術館に到着した。モルタル造りの大きな建物が、林の中に横たわっていた。約束してあった時間にはまだ少しあったので、美術館の周辺を散策する。
美術館前にある駐車場の奥の一角には、子どもの背丈ほどの高台の上に、木造の小さな祠がある。この宋銭(そうせん)堂には、この地から宋の古銭が出土したことにより、その供養のため1979年に建てたそうだが、その後に亡くなった丸木夫妻の遺骨の一部も今は納めてあるとのことであった。手前の鳩を描いた濃いグリーンの石碑には、丸木位里さんの書で、母親スマさんの言葉である「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」を刻んである。まさに含蓄のある名言である。
そのすぐ右横には、3mほどの灰色の石に「痛恨の碑」と大きく彫り込んである。石碑の裏に書かれた由来には、1923年の関東大震災のときに、東京から埼玉の地に逃れてきて虐殺された200名をこえる朝鮮の人たちのため1986年に建立とある。かつて丸木夫妻が、「沖縄戦の図」を描くため取材に久米島を訪ねたとき、日本軍に殺された島民と朝鮮人の名前を刻んだ「痛恨の碑」があることを知り、それを真似たものである。この字も丸木位里さんの書である。
その近くでは、全体が黄金に色づいたメタセコイアの大樹が、三角錐で青空に突き刺さるようにそびえていた。
美術館の前庭には、かつて広島にあった丸木位里さんの実家の一部が移設されている。原爆で実家は傾き、屋根は飛んでしまったが、その一部は1970年から間口2間(3.6m)の小屋に形を変え、名称も原爆観音堂として親しまれている。これも広島から移した観音様を中央に設置し、その周りをカラフルなたくさんの千羽鶴の折り紙が取り囲んでいる。その中には、地域生協の名前を書いた短冊もあった。
それぞれの施設などが、丸木夫妻による平和や人間愛のメッセージを良く伝えていた。
・ 美術館に入ると
約束した時間になったので、美術館の入り口にある事務所を訪ねた。受付の女性に挨拶すると、電話で約束した相手は朝から館に出てきていたが、急に体調を崩して昼過ぎに帰宅したとのことであった。一瞬だが、調整をし直して別の日に遠路を出直さなくてはならないのかと気落ちした。すると私の顔色を察してかその女性が、「私が対応しますので」と明るく話してくれたのでホッとする。
美術館の中も、モルタルの地肌がそのまま出ている。資金のない民間の美術館であればやむを得ないことだろう。よくこれだけの大きな施設を維持していると感心する。建物を入ってすぐの場所は、2階まで吹き抜けになっていた。丸木夫妻の作品を収めた画集や絵本や手記もあれば、絵はがきやハンカチやTシャツなども置いて販売している。数名の来館者が、興味のある本を開くなどして雑談していた。
入り口の横にある事務所は、チケット売り場も兼ねている。昼間とはいえ12月のはじめでもあり、モルタルの床は底冷えがする。事務所の中央に備えたストーブが赤々と燃えていた。
この丸木美術館は、夫婦で画家であった夫の丸木位里(まるき いり 1901年~1995年)さんと、妻の丸木俊(とし 1912年~2000年)さんの作品を中心に展示している。中でも国際的に有名な作品は、美術館の名称の頭にも付けてある「原爆の図」である。
丸木美術館の入り口風景
・ 人々の熱意が開館を
対応してくれたのは、丸木美術館の事務局員である鈴木陽子さんであった。以前は有機野菜の配達をしていたという明るく元気な女性である。財団法人である「原爆の図丸木美術館」は、事務局長1名と学芸員1名、それに鈴木さんを加えた3名が正規職員で、他にパートさんが1人の計4人体制である。事務局長さんは、広島で行われている展覧会に「原爆の図」の一部を貸し出したこともあって、そちらに出掛けていた。それぞれが役割分担して、かなり忙しく動いている。
まず鈴木さんから、開館までのいきさつを聞いた。
「丸木夫妻は共同で大作に挑戦され、1950年(昭和25年)に『原爆の図』の第一部である幽霊と第二部の火、そして第三部の水を完成させました。するとこの三部作は、多くの人の手で日本全国の巡回展へと回ったのです。記録によれば1952年(昭和27年)までに北海道から九州までの51カ所で、実に65万人もが押し寄せたそうです。
そうした反響もあって丸木夫妻は、その後に原爆の図の五部作や十部作を仕上げました。そしてそれらを携えて、2回目の国内巡回展だけでなく、世界平和文化賞を受けたこともあり、ついに世界の巡回展にも出掛けていったのです。
こうした大きな評価を得た原爆の図を、いつ来ても見ることができるようにと、ここに『原爆の図丸木美術館』を建てることになりました。1967年(昭和42年)のことです」
すごい数の人々が、「原爆の図」に押し掛けたものである。
ところで夫である丸木位里さんの実家は、広島市を流れる太田川を少しさかのぼった農村である。1945年に原爆が落とされたときは、その実家に両親や兄弟が住んでいた。当時のことを位里さんは、手記にこう書いている。
「広島に原爆が落とされたときは浦和に住んでいました。新聞には新型爆弾にて相当な光あり、とだけで何が何だかさっぱりわかりませんでしたが、噂は噂を呼び、どうやら大変なことだということは感じられました。その日に東京に行き、下りの汽車にむりやり乗り込みました」
位里さんは広島の近くで罹災列車に逢い、「ハダカの人、着物どころか皮膚の皮が一皮むけてたれ下がった人等々、大変なものをみ」、さらには土地のおばさんから、「殺人光線で家も草も木も何もありません。むろん人間は一人残らず死んでしまった」と聞いて「ぞうと身の毛がよだつ思い」をしている。
数日たち夫を追って広島に入った俊さんも、原爆の惨事を見たり聞いたりしている。それだけでなく、残留放射能のために血便や腸出血をするようになり、9月には二人して東京に戻るが、体調を崩した状態がしばらく続いた。
こうした二人の共通した体験が、絵画にして原爆の実態を一人でも多くの人々に伝えたいという気持ちになっていく。ところで戦争が終わってしばらくの間は、アメリカに対して反発する感情を抑えるためにも、広島と長崎での被爆の実態について報道することは固く禁じられていた。このため当時の大半の日本人は、被爆の実態について正確に知ることができなかった。そこで丸木夫妻が原爆を描くことは、多くの人々の関心を呼び、またジャーナリストたちはいくつもの記事を書いて応援した。
「原爆の図」展は、多くの人々の協力で実施されていった。たとえばその一つであった長崎では、1953年(昭和28年)1月に4日間開催となり、入場者1万7844人で、徴兵反対署名9303人も集めている。この展示会は、長崎市内の各種労働組合や宗教連盟などが共催し、さらには後援団体として自由党支部、社会党連合会、共産党委員会、全新聞社(6社)、放送局までも名前をつらねている。平和や反核に向かって、今では想像もできない連帯した取り組みが地域で具体化されていた。
・ 今も叫び続ける絵画
こうして丸木夫妻の共同で制作された原爆の図は、年代順に以下のようなタイトルが付き、この丸木美術館に収納されている。
第一部 幽霊
第二部 火
第三部 水
第四部 虹
第五部 少年少女
第六部 原子野
第七部 竹やぶ
第八部 救出
第九部 焼津
第十部 署名
第十一部母子像
第十二部とうろう流し
第十三部米兵捕虜の死
第十四部からす
それぞれの作品は、縦1.8mで横は実に7.2mもある。その多くを墨汁で描いてあり、大作の前に立つと絵の迫力に圧倒されるのと同時に、まるで闇の世界に引き込まれそうにもなる。
最初の「幽霊」では、衣服だけでなく皮膚や髪の毛まで焼き奪われた多数の人たちが、呻き声すら出す気力もなく、ただよたよたと歩き、ドサッと倒れた人たちは屍の山を造っている。
「火」では、全面にチョロチョロと真っ赤で小さな炎が無数に燃えあがり、その中で身をよじった女や子どもたちが大きく口を開けて泣き叫んでいる。
「水」では、川に押し寄せた被爆者たちが、最後の力を振り絞って一口でも水を飲もうと手と唇を出している。その川面にはおびただしい死体が浮き、中央には亡き幼子を両手で抱きしめた女性が静かに立っている。
他の絵にも沢山の被爆した人たちが描かれている。恐怖や痛さのため目をつり上げている人もいれば、放心状態で呆然としている目や、すでにまぶたを閉じたままになっている顔がいくつもある。必死に空を掴んでいる5本の指や、髪の毛や皮膚を焼かれてしまい丸坊主の頭があれば、さらには頭蓋骨や手や足などの骨が山のようになっている。地面に転がっている赤ちゃんもいれば、爆風に飛ばされたのか逆さになって落ちてくる人々もいる。
描いているのは人だけではない。人と同じく死ぬ間際のおびえている馬や牛や子犬もいる。それぞれが、目や口や手や足や体を使って、恐怖や怒りや戸惑いを表していた。
丸木夫妻は「原爆の図」について、以下のような文書を連名で残している。
「わたくしたちは原爆でおじをうしないました。めい二人も死にました。妹はやけどをし、父も半年後になくなりました。知人友人をたくさんうしないました。(略)
原爆の図を描き始めたのは三年もたってからのことです。自分も裸になって当時の姿を思い起こして描き、原爆のことならとモデルになってくださった人々。十七歳の娘さんには十七年の生涯があった、三つの子には三年の命があった、と思うようになりました。絵の中にはデッサンも合わせて九百人程の人間像を描きました。たくさん描いたものだと思いました。けれど広島でなくなった人々は二十六万人なのです。広島の人々の冥福を祈り、再び繰り返すな、と描き続けるならば、一生かかっても描きつくすことの出来ない数であったと気がつきました。(略)」
こうした丸木夫妻の思いを込めた絵画の保管は、財団法人「原爆の図丸木美術館」が行い、その寄附行為では以下のように定めている。
「(目的) 第3条 この法人は、丸木位里、丸木俊共同制作の原爆の図の永久保存展示を中核として、一般の絵画展等を通じて、絵画芸術への関心向上を図り、あわせて内外絵画の紹介研究を行い、絵画を通じて文化の発展に寄与することを目的とする」
原爆の図について鈴木さんからのコメントを受けた。
「普通は原爆というと、キノコ雲や原爆ドームを絵にすることがほとんどでしょう。その方が画家にとっては描きやすいし、また観る人もすぐに原爆とわかります。ところが丸木夫妻は、そうしたキノコ雲や原爆ドームではなく、あえて人間だけを描くことにしたのです。原爆の下で人々が泣き叫び、そして死んでいった様子を丁寧に描くことによって、原爆の残酷さや非人間性を強調しようとしたのです。
原爆がもたらした被害を、人間の命という一番根本的なところにまで突き詰めて普遍化しているのです」
確かに言われてみると、「原爆の図」にキノコ雲や原爆ドームはまったくなく、たくさんの被爆者の姿が中心である。
聞いて私はハッとした。旅をするときに趣味でスケッチブックを持っていく私は、広島を訪ねる度に必ず原爆ドームを描いていた。それで私は、原爆をある程度は理解していたつもりでいたが、人間にまで筆をすすめたことはなく、本質への迫り方の不充分さを痛感させられたし、改めて丸木夫妻のすごさを感じることができた。
ここには「原爆の図」以外にも、夫妻が共同で制作した大作がいくつか展示されている。日本人の加害責任を問うための「南京大虐殺の図」もあれば、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺を描いた「アウシュビッツの図」もあるし、さらに現代の日本の公害問題を鋭く指摘した「水俣の図」も大きな壁面に飾ってある。それぞれの膨大な資料に目を通した夫妻は、可能な限り現地の取材も行って、歴史の中に埋もれた人々の叫びを浮き彫りにし今に伝えている。
・ 美術館で作品創り
丸木美術館の寄附行為では、次のように事業について触れている。
「第4条 この法人は、前条の目的を達成するために次の事業を行う。
(1) 原爆の図丸木美術館の維持運営。
(2) 一般の絵画展。
(3) 児童、生徒、学生に対する美術教室。
(4) 美術評論家による講演会等。
(5) 機関誌の発行。
(6) 美術団体との連絡協調。
(7) その他に目的を達成するために必要な事業。」
こうした財団法人を作り、丸木美術館の管理運営をすすめ、この寄附行為に沿って多彩な取り組みをしている。
その1つが丸木美術館クラブである。2003年からはじめ、小さな子どもでもできる簡単な工作と絵画を基礎としたワークショップをする場で、創意工夫で大人でも充分に楽しむことのできるプログラムである。毎月一回土曜日の午後に親子や友だち同士で、以下のような内容で一緒に楽しんでいる。なお参加費は材料費として一人500円である。
こっとうビンに絵を描こう:土蔵の中から出てきたステキなこっとう品のビンに絵を描きましょう。/今年も楽しいクリスマス!:透きとおったカードを作ります。誰に贈ろうか、気持ちをこめて/カルタでコラージュ:色とりどりの楽しいカルタ。なんと花札まで使って、自由にコラージュしましょう!/素晴らしい版画を自分流に:あの有名な作品を、ああしてこうして……/まほうのポケットだー:古くなったジーンズのポケットを使って、おしゃれな壁掛けにしちゃいます。/かわいいペンダント:自然が生んだステキな模様、年輪を生かして、ワイルドなアクセサリーをつくってみましょう。/手作り和紙ではり絵:ちぎるのも楽し~い和紙を使って、手作り版画と自由自在にコラボレーション!
毎回それぞれに専門家が来て、初心者にも丁寧に対応する。静かに芸術品を観るだけの美術館でなく、自らも頭や手を使って楽しく作品を創ることのできるように工夫している点がユニークだ。これまでの企画には、毎回20名前後が参加している。それも親子での参加を呼びかけており、楽しみつつ子どもは親と一緒になって作品創りができるので、家に帰ってからも作品を見つつ話題は広がることだろう。
・ 「原爆の図」を受け止めて
それぞれ感じたことを来館者は、館内に備えてあるノートや学校の感想文集などに、思い思いの言葉で書き込んでいる。
小学校6年の女の子である。
「わたしも戦そうのうったえなどを、何かで表現したい。私はまだ子供。だからうったえる義務が私にはある。だからこそ今べんきょうするのだ。だから気合いを入れて勉強するぞ!!そして美しい未来のけんせつ者になるぞ!!」
同じく小学校6年生の男の子である。
「ぼくは原爆をうけた人がどうなったかよく分からなかったですが、丸木美術館の『原爆の図』を見てよく分かりました。それと最初に説明してくださったように、丸木夫妻が『原爆をうけたらどうなるかを、未来の子どもたちに見てほしい』となぜ思ったのかもわかったような気がします。美術館の見学はとても勉強になりました。ありがとうございます」
中学の女生徒である。
「原爆がこんなに大きなヒガイをもたらすことを改めて実感した。原爆といったらキノコ雲だったけど、人がこんなにも焼けただれて痛々しかったのは初知りだった。今も戦争が続いている国もあるけど、人の命のとうとさを世界の人に知ってもらいたい」
高校3年の女性である。
「普段は忘れて過ごしているし、忘れていたい痛ましい事に、まっすぐ向き合ってきた丸木夫妻にとても尊敬の気持ちをもちました。
原爆となると私たち日本人は、アメリカにやられたんだという考えばかりなってしまうけれど、原爆の図には、ネコやツバメなど他の生き物、アメリカ人ホリョ、朝鮮人のこともえがかれていて、私の中での原爆投下の事実に対する認識というか見方が少し変わりました。死体にまで朝鮮の人を差別したことにとてもショックを受けました。南京大虐殺も、もっとしっかりと向き合うべきなんだと思いました」
大学生で18歳の女性である。
「私はここに来るのは5回目でしょうか。小さな頃両親に連れてこられたのが最初で、その時はただただコワイというだけでした。自分の成長と共に絵の見え方が変わっていくのがわかりました。私は今大学生です。自分の生き方や将来のことでいろいろ悩んでいます。丸木夫妻の生き方は、ほんとうにすごいと思います。伝えたい、残したい、感じてほしい、そういった気持ちがものすごく伝わってきました。丸木夫妻のこの思いが世界に広がってほしい。戦争に正義はない。同じあやまちをくりかえすなんて人間のすることじゃない。ただお互いに認めあって、許しあって手をつなぎあう。それだけで世界は平和になれるはず。なのになぜ・・。戦争にかけるお金を、飢えに苦しむ子どもたちに・・・。世界の平和を願います!!!丸木さんと共に」
33歳の方も書いている。
「時代にほんろうされて迷いそうになった時、ここに来て欲しい。多くの人に知って欲しいし、見て欲しい。そう思います。世界中の戦争がなくなって、この美術館と平和がずっと続いて欲しい」
短い文に熱い思いを込めた人もいる。
「ぜったいに絶やすな、美術館を。戦争反対」
それぞれの思いがよく表現されており、いろいろな人が原爆の図を正面から受け止めていることがわかる。
・ 平和への祈り
今後の課題などについて鈴木さんからさらに話を聞いた。
「実は来館者が84年には年間で6万4千人もいましたが、2004年は1万4千人を割るまでに減少し、ここの運営はピンチになっています。公立の美術館であれば、充分な資金のもとで運営することができますので、原爆の図を国などに託すことを提案する人もいます。でも財団で主旨に賛同してくれる一人ひとりが支えることにより、より市民に密着した小回りをきかせた運営ができます。
そこで多くの方のご協力もいただきながら再生プロジェクトを立ち上げ、例えば関心のある学校への出張授業や支援芸術祭などを予定していますので、どんなことがあっても丸木美術館を存続させます」
2005年7月には、「原爆の図丸木美術館存続への支援のお願い」と題した文書を出している。この文書の呼びかけには、落合恵子さんや辻井喬さんや埼玉教職員組合などが名前を出し、賛同人には吉永小百合さんの名前もある。広範な人々の支援の輪が広がりつつある。
さらに翌月8月1日の朝日新聞の朝刊には、写真入りの3段記事で「『原爆の図』展示丸木美術館危機」が掲載され、「入館激減、かさむ維持費」との小見出しも付いている。全国からの反響は大きく、丸木美術館の事務所は終日電話のベルが鳴り響いた。
鈴木さんの話は続く。
「これまでにたくさんの方々が支援をしてくれました。年会費が1口2000円の友の会は、2500人をピークにしてこれまで減少して約1000人まで落ち込んでいましたが、やっと増えつつあります。
また緊急支援でカンパもお願いし、500円から500万円といった幅で、それぞれの条件に応じて貴重なお金を寄せていただいています。もちろん額の大小ではなく、年金生活をされている方からのありがたい寄附など、こんな人たちからも支援されているとわかり大変に感謝していますし、ここで働く励みにもなります。
これからの社会においても『原爆の図』が必要であると願う人が、ぜひ一人でも多く増えていただき、平和な社会を築くための取り組みにつなげていきたいものです」
憲法を変えて戦争のできる「普通の国」に我が国がなりつつある中で、生協の平和活動もますます重要性を増している。ぜひまだの方は「原爆の図」や他の絵などを直接観てもらい、丸木夫妻の平和への祈りを全身で受け止めて欲しいものだ。
連絡先 財団法人 原爆の図丸木美術館
〒355-0076 埼玉県東松山下唐子1401
電話 0493-22-3266
