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(財)生協総合研究所 研究員 西村 一郎
・平和資料館・草の家へ
高知市の市街地をゴトゴト走る路面電車の通りから、少し路地を入った場所で建物を探す。民家を利用している平和資料館・草の家は、なかなか見つからない。小さな地図を見ながら、あたりをキョロキョロしていた。
ふと、小さな車寄せの横に奇妙な模様の壁面が目に飛び込んできた。横4.5mで高さ2.5mのそれは、40cm四方の陶板を40枚並べた「生命の踊り」である。中央に上へ力強くジグザグに伸びる大きな線は、いくつもの三角形を作って左右の天空へと広がっている。
四隅には、動物なのかアメーバーなのかわからない生命体が、クネクネした曲線で自由奔放に踊っている。高知県出身の絵本作家田島征三さんと、滋賀県の信楽にある授産・更正施設「信楽青年寮」の人たちが共同して創った。
一般には知的障害と言われている信楽青年寮の人たちだが、既存の絵画や壁画創りなどにとらわれず、全身の思いを独自のユニークな線と色で躍動させている。その迫力が壁画を見る者の胸に迫る。
鉄筋4階建ての玄関ドアを開けて中に入る。116㎡の1階ホールには、小さいながらも奥にステージがあり、ピアノなども置いてある。そして、壁面や小ホールの周囲に並べた机には、戦争に関わる品々が所狭しと展示してある。当時の汗や血が滲んでいるような防空頭巾、錆びてボロボロになったサーベルや銃剣、兵士の安全を願いつつ一針毎に縫った千人針、子どもから大人までを戦争に駆り立てた教科書や雑誌類、破裂して歪んだ砲弾の破片、広島の原爆で表面が焼きただれた原爆瓦、穴が空いて茶色に錆びている鉄かぶと等など。
小さくてもそれらの1つひとつに、あの戦争前後に秘められたドラマがあることだろう。なかには、死をもってある日にそのドラマが消された人のものかもしれない。そんなことを想像すると、気軽に手で触ったり前を足早に通り過ぎるわけにはいかない。まだ面会を約束してある時間までしばらくあったので、それらの品々と無言の対話を私はしていった。
館長の西森茂夫さんに会う。ホールの窓際にある木製の椅子で、60歳になった西森さんはメガネの奥で優しく微笑みながら説明してくれた。
「ちょうど10年まえにここは建てたもので、それまで自宅として使っていた家を半分壊し、広げた敷地に鉄筋を建てました。お金がなかったものですから、3階と4階は貸しマンションとし、その収入でかかった6000万円ほどの費用をまかなう計画でした。たくさんの方から草の家の開設にあたっては、貴重なカンパなどをいただきましたが、それらの500万円は、全て設備の方にまわしたのです」
家を半分に切るなどとどうもイメージがハッキリしない顔を私がしていると、当時の工事風景の写真を西森さんは何点か持ってきてくれた。そこには、木造2階建てを正面からスッパリと切り、道路から見ると左半分を壊している。庭と一緒に敷地を整理し、半分の2階建てにくっつくようにして4階建ての鉄筋ビルを建てていた。よくこんな施工で雨漏りがしないものだと感心しつつ、それ以上にここまで思い切って決断して草の家を造った西森さんを見返した。
ところが当人は、そんなにすごいことをしたとはまるで感じさせない表情である。
・民立民営で
淡々とした西森さんの話がすすむ。
「あまり地元でも知っている人は少ないのですが、高知市は1945年7月4日未明にB29爆撃機125機の空襲を受け、400名をこえる人が犠牲になったのです。その事実を今の若い人たちにも伝えようと、1979年に市民図書館において高知空襲展をおこないました。
それ以降も毎年のように空襲展を企画し、だんだんと規模も大きくなっていきます。それも平和や民主主義に関わる他のテーマで、次々と広がっていきました」
もらった資料によれば、以下のような取り組みを空襲展と併せて草の家が関わっておこなっている。
・ 高校生平和祭り
・ 平和七夕祭り
・ 反核平和コンサート
・ 平和映画祭
・ 平和美術展
「こうした取り組みをするなかで、戦争と平和にかかわる資料の重要さに気付き、常設の建物が必要だと痛感するようになったのです。そうしたなかで83年に『自由民権記念館』を造ろうという話が出て実現しますが、こちらは現代の課題までカバーできませんので、兄弟施設として『平和資料館・草の家をつくる会』を1985年に立ち上げました。
当初は公立にしたいと考えて行政に働きかけましたが、市は趣旨に賛同するが金は出せないとのことです。次に法人化も考えましたが、こちらも厚い壁がありました。そこでやむなく自宅の土地を使い、建設資金の6000万円を借金して建てることを決断したのです」
自由民権記念館は、1990年に高知市の南に開設された。明治時代に土佐の高知から、全国へと燃え移った自由民権の運動を当時の資料や映像なども活用し紹介している。
その理念を現代に引き継いで「平和資料館・草の家」が完成しているといえるだろう。
なお、草の家の名称については、次のような意味をこめているとパンフレットでは紹介している。
「民衆の力で平和を創造していくこと、環境破壊はもう一つの戦争であり、平和は自然の摂理のなかに存在すること、草の持っている柔らかさ優しさ、そして自然生態系で裸地から草地へ、草地から森林へ遷移していくように、現在が武器のない平和の森に移行する過程であるという認識も表徴しており、私たちの理念を総合的にあらわしています」
一般民衆の力を表現するのに「草の根」という言葉があり、これとも意味は連動しているようだ。とにかく草の家という名称にも、民立民営の精神が深く込められているといえるだろう。
・平和七夕祭り
具体的な取り組みについて、さらに西森さんから説明を受けた。まず最初は平和七夕祭りである。
「第5回の空襲展を開催した1983年からスタートさせました。空襲展は毎年開き、資料を見て戦争や平和について考えることはできますが、これだけでは不充分だとわかってきたのです。もっとたくさんの人々に参加してもらおうと考えたわけです。
その点で折鶴は、誰もが参加して平和をつくる喜びを感じることができて効果的です。鶴の形に紙を折って幸せを願うことや、七夕のときに夜空で年に一回の出会いを想像することなどは、平和と伝統文化を結びつけます。
このため子どもからお年寄りまで誰でも気軽に参加でき、学校や家庭での平和教育のきっかけとなり、また商店街のアーケードに飾って美しい風景になるので多くの市民の共感を得ることができます」
最初のときは、作った折り紙をそのまま持ってきたので、糸に通して飾るまでが一苦労だったとのことである。それも市民の数である30万をとりあえずの目標にしたところ、実に100万羽ほど集まっているので大変さがよくわかる。でも次の年からは、きちんと糸に通して持ってきてくれるようになったので、簡単にアーケードにかけることができるようになる。
折鶴作りを通して、いろいろな会話も広がった。「折鶴なんかを作って平和がくるものか」という人もいれば、「いや、きっとつながる」と議論になったところもあるそうだ。たとえ労働組合が第一と第二に別れて気まずい関係になっていても、折鶴作りについては一緒にできる。
また折鶴を作るまでにもこうした意義はあるが、あわせてできた後の美しさを見て再び感激することもあるようだ。たとえば市内のアーケードに飾ってある自分たちが作った折鶴を見ようと、実際に高知県の東の端に位置する室戸からわざわざ出かけてきた人もいる。
「折鶴の束には短冊を付け、平和への思いを自由に書いてもらいましたので、それぞれの平和七夕祭りに参加する気持ちを、読んでくれた他の人にも知ってもらうことができます。
こうした取り組みは高知市だけにとどまらず、やがて中村市でもはじまりました。当初のころ中村では、集まる折鶴の数が少なくて、前年の分をいくらか残しておいて加えていましたが、すぐに目標の50万羽が毎年集まるようになったのです」
99年に高知市で実施した平和七夕祭りの写真を何枚も見せてもらう。100万羽という数字が、今ひとつ実感としてわかなかったが、写真で壮観な様子がよくわかった。1本に10000羽の折鶴がとまっているとすれば、100本以上が高いアーケードからぶら下がっていることになる。
これであれば、商店街の人たちも喜ぶはずである。街並みがきれいになり、あわせてそれを見るために通行人が増えれば、きっと店の利用増につながることだろう。
ちなみに、折鶴をアーケードに飾る京町と新京橋の商店街は、空襲の一番激しかった地域のひとつで、それだけ被害も大きかった地域である。
こうした平和七夕祭りには地元のこうち生協も協力し、たくさんの組合員が折鶴を作って平和の祭典に彩りを添えている。
・憲法の森づくり
草の家がおこなっているユニークな取り組みは他にもある。「憲法の森」と聞いて、まったくイメージがわかずに西森さんに説明してもらう。
「平和な日本をつくっていくためにも、憲法九条の精神を維持するため日本国憲法を守っていくことが何よりも大切です。そこで94年の11月3日に憲法の森構想をまとめ、高知県北部の山に2.5haの土地を確保しました。護憲の考えを目に見えるもので後世に残すため、憲法の条文と同じ103種類の木がある自然林を育てることを目的にしたのです。
日本の平和憲法は、103項目もの貴重な条文がお互いに共鳴しあってできている1つの優れた体系ですよ。これはいくつもの種類の樹木が集まってできる自然の森とよく似ています。そこで憲法を守ることと、自然の森づくりを重ねたわけです」
高知県は、84%が森林におおわれているが、原生的な森林である自然林は全体の1%しかなく、人工林は67%と全国一の多さとなっている。それも自然環境を無視し、成長が早いという効率のみを重視して針葉樹である杉と桧が中心で、山の保水力が高く、またたくさんの実を着ける広葉樹ではない。このため表土が流れ、土砂崩れがおきやすい状態になり、緑の砂漠と言われたりするほど山間部における自然破壊がすすんでいるといえよう。
そうしたなかで、その土地の生態系にあった自然林を復元することは、ユニークで意義のある取り組みだ。このことは「木の文化県構想」をかかげた行政も評価し、憲法の森の会結成を祝う集いには、県知事から次のような祝電が届いている。
「憲法の森の会の結成をお喜び申し上げます。戦後五十年という節目の年にふさわしい取り組みであり、素晴らしい成果を期待しています」
このときには、日本子どもを守る会からもメッセージが届いている。
まず95年の3月に50名が集まり、一回目の植林をして28種1200本を植えた。当日は、山仕事を始めるまえに山の恵みに感謝する地元の伝統儀式をおこない、「戦争なんか金輪際しないという人々の心の森をつくる。平和の種よ、芽をふけ」と寿詞(よごと)を全員がうたいあげた。
つづく5月3日には70名で憲法の森誕生会を開き、大きな看板も設置して2回目の植林をしている。
こうして憲法の森に植わった木の種類は、森林インストラクターのアドバイスにそって次のようなものである。
コナラ・ミズナラ・カツラ・ケヤキ・イヌブナ・キハダ・山桜・イタヤカエデ・イロハカエデ・トチ・クヌギ・アキニレ・ナナカマド・ハクモクレン・コブシ・ネムノキ・ドウダンツツジ・エゴノキ・柿・桃・梅・栗・百日紅(さるすべり)・カシワ・ヒメシャラ・楠・クロガネモチ・椿・アラカシ・タブノキ・イタジイ等
一般の人にとっては名前を聞いたこともない樹木もいくつかあるほど多様な木を集め、それ以降も機会をつくっては植林をおこない、5年間で約50種の4700本が植わっている。
こうして平和を創り出す人間の森として憲法の森は根を下ろし、やがて現地を訪ねて西森さんたちと交流した人が中心となり、97年に遠く長野市で松代大本営平和祈念館建設実行委員会が「マツシロ憲法の森」をつくり、また99年には高知県幡多郡西土佐村にも(社)西土佐環境・文化センター四万十楽舎(しまんとがくしゃ)が中心となって同じ趣旨の森を育てはじめた。
西森さんたちのまいた憲法の森という種が、確実に広がりつつある。
・共生単位としての平和形成体
こうした取り組み以外も含め、草の家の活動は以下のように多岐にわたっている。
① 戦争の全体像とその細部を正確につかむための研究活動
中国平和の旅を99年までに6回企画し、記録はブックレットとして普及している。
② 国際交流活動
英文のニュースレターを年2回発行したりして、国際交流を強めている。
③ 草の根活動のセンター
平和七夕祭りや空襲展などから市民平和行進など、地域から世界へ広がる平和の波
(ピースウエイブ)のセンターをつとめる。
④ 「憲法の森」育林と里山の自然農での「みみず園」
⑤ 草の家と子どもの教育
⑥ 戦争遺跡保存
戦争の語り部の組織化や、戦争遺跡保存ネットワーク高知の発足
こうした草の家を中心に展開している多様な取り組みを、いったいどのような考え方方で束ねているのか西森さんにたずねた。
「一言で表せば平和形成体論となります。地域住民の生活とそれを支える環境要因が、一つの人間環境生態系としてバランスのとれた存在で、持続可能な生活共同体のことを平和形成体論と名付けました。図解するとこうなります」
そういって西森さんは、次のような図を見せてくれた。
図1 地域での共生単位としての平和形成体
「底辺を医・職・充・治の四辺にしたピラミッドとし、物質が循環する森や川や海に重ねてみました。
ここでまず医とは、医食同源といわれる食と健康を表わし、2つめの職は仕事のことで地域における経済活動を意味します。3つめの充は、充実したくらしとか生き甲斐のある生活を築くことで、4つめの治は自治のことで政治の主人公になることをイメージしています。
こうした4つの側面をもち、歴史の軸を中心とし、その中心部分に平和資料館があるという考え方です。生物学的にいえば、平和資料館が細胞核となり、平和形成体それ自体がひとつのホロンであり、他に働きかける能力があるというとらえ方です。別の表現をすれば、生きること、暮らすこと、働くこと、治めることを総合した『総合協同組合・ホロン』をイメージしているのです」
規模はたとえ小さくても、むしろそのことの優位性を積極的に利用し、平和資料館「草
の家」はこれからも平和な社会をめざしていくつもの活動に取り組んでいくことだろう。
