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Blog:西村一郎活動日誌

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平和を奏でる被爆ピアノ

2006年9月 25日

                  (財)生協総合研究所 研究員 西村一郎

・  心に響く調べ「ヒロシマ被爆ピアノ物語」

「昭和7年、私は静岡県浜松市のピアノ工場で生まれました。ヤマハのアップライトピアノで、製造番号は18209。

その後私は、広島市千田町のあるお屋敷にもらわれていきました。その家には、音楽が大好きなお父さんとお母さん、そして当時4歳だったミサコさんが住んでいました。ミサコさんはすぐ私に夢中となり、毎日何時間も弾いてくれました。・・」

純白のドレスを着たピアニスト向井理佐美さんの静かな優しい声が、凛としたピアノの音色と一緒にゆったりと流れていく。

突然、声が鋭くなり、ピアノの音色も大きくなった。

「昭和20年8月6日。ミサコさんは、川向こうの町、出汐町へ朝早くから出かけていきました。

8時15分。突然、強い光とともに、ものすごい爆風で家中のガラスが吹き飛びました。私にも無数のガラスが突き刺さり、天井のハリがすぐ近くに落ちてきました。・・・」

広島の爆心から1.8kmの地で、原爆の被害を受けたピアノの物語である。どうにか無事であったミサコさんは、敗戦の後で気持ちを癒すため傷だらけのピアノを弾いた。ところが当時の広島の人々は、戦争と被爆によって心身ともに疲れて荒れ、ラジオも音楽を自粛していた時期である。近所の人が怒鳴り込んできたり、もしくは石を家の中に投げ込まれたりもした。それからというもの、その被爆したピアノは音楽を奏でることはなかった。

やっとこの被爆ピアノが再び光を浴びるようになったのは、2005年の夏のことである。広島在住で自らも被爆2世である調律師の矢川光則さんの手で、当時の姿に見事よみがえった。

弾き語りの最後である。ゆっくりと力強く、噛み締めるるようにして向井さんの声とピアノの音色が響く。

「傷だらけの私の体を見てください。原爆の熱線と放射能をたくさん浴びた私の体を見てください。

もう誰も私のように傷ついて欲しくない。私は、私の音楽で平和を訴え続けます。

ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」

8月4日も朝から暑い日であった。広島市内にある小学校の広い体育館で、被爆ピアノを使った演奏会が開催されていた。隅々まで響いていた語りとピアノの調べが終わった。一瞬の静寂の後、900名の子どもたちの大きな拍手がわいた。

「この曲が、元気な被爆ピアノに私は一番合っていると思います」

そう言って向井さんが弾きだしたのは、有名なショパンの「ノクターン20番遺作」である。映画「戦場のピアニスト」でも切なく流れていた曲である。鍵盤は軽やかにはずみ、それでも音色には力強さがあった。

演奏会の後半は、それまでと一転して子どもたちに馴染みのある曲がメドレーで続き、後で子どもたちに曲名を当てさせていた。高学年向けには、「冬のソナタ」・「エリーゼのために」・「トルコ行進曲」・「世界に1つだけの花」などが続き、低学年向けには、「サザエさん」・「アンパンマン」・「ミッキーマウスマーチ」・「大きな栗の木の下で」などが続いた。「ドラエモン」の曲になったときは、みんなで大合唱にもなった。

演奏が全て終わり、子どもたちから矢川さんと向井さんに、感謝の気持ちを込めて花束が贈呈された。退場する子どもたちは、一列になって被爆ピアノの前を通り、中には恐る恐る色あせた象牙の鍵盤に触るとか、または上前板にいくつもあるガラスの突き刺さった傷跡を指でなぞる子どももいた。

演奏を終えたピアニストの向井さんに話を聞いた。

「この昭和7年製造の被爆ピアノに出会ったのは、昨年2005年の夏のことで、8月6日には市内のデパートのホールでお披露目の演奏をしました。その会場には、被爆当時の持ち主であるミサコさんが来られていましたが、マスコミに知られて騒がしくなることを嫌がっていまして、私はご挨拶をすることができませんでした。

その会場で被爆ピアノを演奏しながら、当時のミサコさんの心境を想うと、いつの間にか涙が出て止まらなくなりました。3歳のときから私はピアノを弾いていますが、初めてのことでした。

今日の子どもたちには、被爆ピアノの素敵な音色と一緒に歌ったことを、ぜひ忘れないでいて欲しいですね」

優しく微笑みながら向井さんは静かに話してくれた。

地獄からよみがえった被爆ピアノは、その美しい音色と傷だらけの体で、平和の大切さを子どもたち一人ひとりの心に、きっと優しく刻んだことだろう。

*写真

・  被爆ピアノを訪ねて

広島市の郊外にある矢川ピアノ工房を訪ねることにした。被爆ピアノを3台も所有しているとのことで、ぜひそれらを見てから矢川さんの思いや取り組みなどを聞きたいと思った。

電話で取材の了解をとって場所を聞くと、「山の中ですよ」とのこと。いくらか不安はあったが、広島の市街地から車で30分から40分ほどの場所とのことだし、住所もきちんと聞いているのでタクシーを使えばどうにかなると考えた。

市内のホテルに荷物を預け、少し余裕を持ってタクシーに乗った。運転手に住所を告げると、「その場所はよくわからないが、無線を使って本社の案内係りに教えてもらうから大丈夫」とのことなので安心していた。ところが郊外に出て何回か運転手は本社と交信をしていたが、案内係もよく分からないようで、最後には近くの交番で聞くようにとの指示である。長いトンネルを抜けると、運悪く激しい雨が降ってきた。交番で聞くと、だいぶ方向が違うとのこと。警察に教わった方向にどんどん山の中へと入り、途中でまた道が分からなくなって、最後は矢川さんに携帯電話で直接連絡をとってやっとのことでたどり着くことができた。

聞いていた通りの山の中にピアノ工房はあった。山と山の間を細い道が走り、その道に沿って小さな水田が続き農家が点在している。矢川さんのお父さんが、この地で農業をされていたとのこと。軽量鉄骨で造った広いピアノ工房は、受け継いだ水田の一部を埋め立てて建てたそうだ。

約束の時間をかなり遅れたにもかかわらず、笑顔で迎えてくれた矢川さんの案内で平屋建てのピアノ工房を見せてもらった。小さな事務所の奥が工房で、さらにその後方には倉庫もある。形の異なるいくつものピアノが並び、現在は全部で奥に保管しているものも含め50台ほどになるとのことで、全部を見ることはできなかったが、3台の被爆ピアノは工房の手前に置いてあるのですぐ側で触れることもできた。

ひときわ目立つのは、足が6本も付いて鍵盤が88個のセミコンサート・グランドピアノである。当時はピアノ教師が所有していて、爆心地から2kmの広島市西区で被爆し、大きな被害を受けたが、ピアノの生命である鋳物のフレームや響板は無事だった。戦後に大掛かりな修復が施され、市民から「焼け跡に音楽を」との声に演奏を再開した。音楽の高校や大学の開校行事などで利用するが、被爆ピアノであることは公表されずに演奏され続けてきた。2001年にそのピアノ教師が他界され、弟子に形見分けされたが保管に困り、2004年から矢川さんの所有となった。

フレームや響板を良く観ると、いくつもの染みがついている。板に塗ったニスは、斑点になっている箇所がいくつもあった。原爆が残した痕である。

他の2台は、鍵盤が85個の普通のアップライトピアノである。それぞれの製造番号から、1932年(昭和7年)と1938年(昭和13年)に造られたピアノであることが判明した。

実は他にもう1台の被爆ピアノを所有していたが、ある日のことトラックに乗せて坂道で停めてあったときに、サイドブレーキが甘かったためか車が後ろに動き出し、谷間に落ちて車と一緒にピアノも大破した。たまたま矢川さんは、車の外にいて怪我はなかった。

ところで被爆ピアノとは、広島と長崎に原爆が投下されたとき、爆心地から2kmの区域内にあって、放射能の影響を受けたピアノのことである。広島平和記念資料館に3台と長崎原爆資料館に1台が保存されているが、実際の演奏に使うことのできるピアノは、矢川さんが所有している3台だけである。

他にも珍しいピアノがあった。呉の大空襲を潜り抜けたグランドピアノである。戦艦大和を製造した軍需工匠の近くに戦艦青葉が停泊し、それをアメリカ軍が爆撃したとき近くの小学校が崩壊し、その下敷きとなって傷ついたピアノであった。

・ピアノの寄贈を

1952年生まれの矢川さんは、若い頃はエレキギターを弾くとか、吹奏楽部に属して音楽を楽しんだ。そのこともあって音楽に関わる仕事がないかと考えているとき、学校の先生からピアノ調律師になることを勧められた。1972年にピアノ調律技術者養成所を卒業し、その技術を活かした仕事を会社に入って続けたが1993年から独立し、1995年には矢川ピアノ工房を設立して今日に続いている。矢川さんから話を聞く。

「私はピアノの調律や、中古のピアノを再生して販売する仕事をずっとしてきましたし、これからもピアノが大好きですので続けるつもりです。

ピアノは長い歴史があり、西洋では約300年前から、日本では100年ほど前から製造されてきました。ピアノの本体にはたくさんの木材を使い、素敵な音色が響くように工夫されていますが、捨ててしまえば大きなゴミとなってしまいます。木材でも昔のピアノには、広い1枚板を使ったりしていましたし、鋳物のフレームも1つずつ手作りの職人芸です。このため高価になり、昭和7年製造の被爆ピアノは、当時のお金で600円もしたそうです。その頃の600円では家が1軒建ったそうですから、今のお金にすれば数千万円にもなるはずです。いかに高かったのかわかると思いますね」

ピアノの命であるフレームや響板に亀裂が入っていなければ、弦などの消耗品を交換することによって、以前の素晴らしい音色をよみがえらせることができる。ところが世の中は、ピアノも含めて大量生産から大量消費とつながり、その結果大量廃棄となって環境問題を起こす要因の1つとなっている。

そこで環境に配慮した矢川さんは、ピアノのリサイクルを強化し、さらには再生したピアノを長年寄贈してきた。

「ピアノの寄贈を始めたのは10年ほど前からですね。老人ホームや知的障害者の方の施設などを探しては、連絡をとってぜひピアノが欲しいという施設に運んできました。音楽療法として利用している病院もありますね。

これまでに116台を寄贈し、国内はもとよりですが、遠くはベトナムやアフリカのモザンビーク、ルワンダ、ケニアにまで届けていますよ。こうした海外に送ったピアノで24台ですかね」

2005年にルワンダへ届けた3台のため、輸送の船代80万円を含めて総額で120万円の経費がかかった。その費用は、子どもたちが中心となったあるNGOが、3年間もかかってチャリティ・コンサートを何回も企画して集めたものである。

工房の壁には、各地の寄贈先からの感謝状がずらりと並んでいた。大きさも異なれば、手書きの書状もあった。その1つが、2003年(平成15年)にもらった広島市民賞であり、秋葉忠利市長の名前でもって以下のような文面になっていた。

「あなたは広島の人々に希望とやすらぎを与え、元気な広島、住みよい広島をつくるために寄与されました。よってこの賞を贈ります」

市民賞としては矢川さんが2人目のことで、寄贈したピアノが90台を超えた頃で、その内の約7割が広島県内であった。

矢川さんの話は続く。

「以前は趣味で楽しんでいたゴルフや釣りもやめて、ピアノを修理しては各地に自分で小型トラックを運転して運んでいました。だから家族とゆっくり過ごす時間がないわけですよ。よく家内から、『ピアノと結婚すれば良かったじゃないの』と嫌味を言われたこともありますが、この広島市民賞をいただいてからは何も言わなくなりました。市長さんから手渡しで賞状をもらうほどの意味のある活動であることを知って、家内も私の評価を変えたようで嬉しかったですね」

それにしても、これまでにピアノ116台もの寄贈とはすごい数である。ピアノの所有者が亡くなるとか、転居や新築などでピアノの置き場所に困ったときなどに、矢川さんへ連絡が来る。全てを引き取るのでなく、出かけていって再生しても価値のあるピアノかどうか判断してから運んで必要な修理をしている。

ちなみに我が国では、現在1000万台のピアノが全国で存在しているが、その内3分の1は弾いていなくて置いてあるだけだそうだ。

・  父親の被爆体験

平和を求める矢川さんに大きな影響を与えた父親の正行さんは、26歳で消防士をしていたときに市内で被爆した。そのときの貴重な手記が下記のように残っている。

「二人とも家屋の下敷きとなり、約20分ぐらい意識不明となりましたが、ふと気がついてみると一緒に居た本田君は、腹部のあたりを家財で押さえつけられ身動きできない状態であり、また私も足を木片で押えられ、同じような状態でありました」

大声で助けを求めたところ同僚がやってきて正行さんは、足元の木材等を取り除いてもらい、やっとのことで外に引っ張り出されたときは、全身を負傷して血まみれになっていた。しかし、一緒にいた本田さんは下敷きのままであった。

「本田君が『助けてくれ!』と叫びました。『よし、すぐ助けてやるぞ!』と返事はしたものの、負傷して思うように体が動かず、そのうちに火が回り、いかんともすることができず、また方々から下敷きとなった署員の悲痛な叫びが今だに耳に残っております」

「あたり一面焼ける中で、最後に助かった10名ぐらいの署員は、一列に並び殉職していった同僚に手を合わせ、『済まない!!』『成仏して呉れよ!!』と念じつつ、西署の南側にあった地下消火栓を出しっぱなしにして、お互いに水を身体にかけあいながら、熱風をしのぎ焼死することを防いでいました」

「あたりの状態は、老若男女を問わず全身焼けただれ、皮膚は垂れ下がり、焼け落ちた木片をつえに何処へ行くともなく、また『水を・・・水を・・・』と泣き叫ぶ者、身内を呼ぶ声、親を探し求める子どもの姿、息絶えて路上に倒れる者、猛火を避けて川に飛び込み生と死を彷徨(ほうこう)う人も数多く、当時を思い出せば生地獄とはこのような状態をいうのだと思いました」

同じく被爆した妹さんは亡くなったが、正行さんは避難途中に水やドクダミの葉を煎じて飲んだことが良かったのか、どうにか命を永らえることができた。ただし体調はかんばしくなく、消防署は被爆後の3年で退職し、農業をしつつ会社の守衛となって働き矢川さんたちを育てた。

・「被爆ピアノ・翼をひろげる会」の発足

各地で被爆ピアノを使ったコンサートを推進するため、被爆60年にあたる2005年に「被爆ピアノ・翼をひろげる会」が発足した。会則には以下の文言がある。

「第2条目的 本会は、被爆ピアノを使って平和の推進を図ることを目的とする。
第3条事業 本会は、第2条の目的を達成するために次の事業を行う。
(1)平和の推進に関するコンサートの事業。
(2)平和の推進に関する環境の整備と保全の事業。
(3)平和の推進に関する青少年健全育成事業。
(4)平和の推進に関する講演、会議、研究会等の事業。
(5)その他、目的の達成に必要な事業  

以来、地元の広島はもちろんのこととして、全国各地で平和コンサートを開催している。なお会の発足については、以下のような紹介の文書がある。

「ピアノ調律師矢川光則さんが、被爆ピアノを修理・改善して全国で平和のためのピアノコンサートを開催しています。生まれ育った広島で、古いピアノを再生し、発展途上国や福祉施設に寄付する奉仕活動を行っている中で、被爆ピアノを託されたことからこの活動が始まりました。

被爆した父の話から、ピアノを出来る限りありのままの姿で残すことにこだわり、被爆ピアノでのコンサートを始めたのは、『世界共通言語の音楽を通して、様々な人に平和について考えてもらおう』という思いがありました。

今まで平和記念公園に現存する被爆アオギリの木の前でのアオギリ平和コンサートを始め、北海道から長崎まで全国で被爆ピアノ・平和コンサートを行ってきました。

また北海道への2回の旅で、被爆ピアノ活動の協力者宮崎文隆氏と話し合い、『保存するより翼をひろげて、世界を目指す活動にしよう』との思いから、『被爆ピアノ・翼をひろげる会』が発足しました」

各地で多種多様なコンサートが開催されている。あるお寺では、戦没者を音楽で供養する芸術法要が営まれており、そこで被爆ピアノが演奏された。横浜の赤レンガ倉庫では、「のむぎ平和太鼓」とのジョイントコンサートを開催し、東京ではキリスト教の教会のホールに被爆ピアノの音色が響き渡った。

愛知万博で被爆ピアノに出会った高校生が中心になって、札幌では2回にわたるコンサートを成功させた。2年目の2006年は、小学校5年から高校2年までの20名が実行委員となった。さらに被爆ピアノは、最北の宗谷岬まで出かけてコンサートを開いた。そのときに寄せられた感想文の一部である。

「1.8kmの場所で被爆し、奇跡的に残ったピアノの音色は最高でした。一番思い出に残った曲は『いのり』でした。なぜかというと、聞いていてもう原子爆弾の使用や戦争は起こしたくないという気持ちが強まったからです。ぼくが大人になったとき、日本が戦争をしていたら反対したいと思います」(中学1年生 男)

「奇跡的に残ったのは偶然でなく、どれだけ戦争が恐ろしいかを私たちに知らせるために、必然的に残ったのだと思いました。ピアノの音色は、普通のとは違う音が聞こえてくるようで、また平和について考えさせられました」(中学2年生 女)

「最初は、『よく被爆したピアノが、こんなきれいな音を出せるな』としか思えなかった。しかし、聞いているうちに色々なことを考えた。被爆後はどうだったのだろう、死んだ人はどんな思いで死んでいったのだろう、残された人はどんな思いだったのだろう・・・。いま思えばこれは『考えた』のではなく、『考えさせられた』んだと思う。ピアノからのメッセージだったのだろう」(中学3年生 男)

若い感性でもって平和の使者としての被爆ピアノを、それぞれの中学生が正面から受け止めている。

ところで「被爆ピアノ・翼をひろげる会」は、現在の会員が40名である。その中の一人に、監査係として元教諭の河田至さんがいる。コンサートの会場では、重たいピアノの運搬や会場の設営などで汗を流していた。その河田さんが、原爆に関わる貴重な品を保管されているとのことで見せてもらった。原爆が爆発する前にアメリカ軍が、記録のため投下した計測器に付いていたパラシュートの布である。白っぽいナイロン製のようなそれは、長い年月を経て色がいくらか黄ばんで見えた。

河田さんの父親は、軍からの回収命令で落下した物体を追いかけた。2つ投下された落下傘は、風に乗って広島市内からはるか離れた山林の木に引っかかった。強力な時限爆弾かも知れず、責任者である河田さんの父親は部下を遠巻きにさせ、死を覚悟して木に登って物体を回収した。計測器の入った箱は軍に届け、パラシュートの布は不要とのことで自宅に持って帰った。物不足の頃である。後に母親が作った服の裏地に一部を使うなどして活用し、切れ端を含めてパラシュートの布を今も河田さんは、貴重な歴史の生き証人として大切に保管し、頼まれれば被爆ピアノのコンサート会場などで紹介をしている。

こうした人たちの協力と支えによって、被爆ピアノを使った平和コンサートは全国各地で開催されている。

・  「生協ひろしま虹のコーラス」の歌声

被爆ピアノと一緒に活動しているグループの1つに、「生協ひろしま虹のコーラス」がある。1981年の「全国生協平和交流会」で、原爆詩人であった峠三吉の一生をテーマにした合唱構成劇の上演や、1985年の「虹のひろば」で全国から参加した仲間を歌声で歓迎しようと、生協ひろしまの組合員の有志で合唱団が編成された。

そうした人たちが中心となって、恒常的に活動するグループとして「虹のコーラス」が結成された。1986年秋のことで、平和・未来・こどもたちをテーマに歌うことを大切にした。それ以来、毎年の「虹のひろば」で舞台に立ち、平和の歌声を中心に響かせている。それ以外にも工夫して多様な活動を展開している。

まず毎月の6日を「折り鶴の日」とし、平和公園にある「原爆の子の像」の側で昼の30分間は歌声の集いを開く。1995年9月に、フランスがムルロア環礁で実施した地下核実験に抗議し、翌月からスタートさせた。それからというもの、雨や風の日も途切れることなく続いている。

2006年8月6日の12時15分に、130回目となる場に私は出かけた。ピンク色の夾竹桃(きょうちくとう)の花の咲き誇る前で、ギターの演奏者と手作りのタペストリーを中心にして、揃いのTシャツを着た10数名の団員が歌い始めた。「青い空は」「ヒロシマの有る国で」「原爆を許すまじ」などの歌声が元気に続く。立ち止まった人たちと一緒に、私も手作りの歌集を受け取り一緒に大きく口をあけて歌った。

最後に歌ったのは、テーマソングにもなっている「あなたが夜明けをつげる子どもたち」である。手話を交えての歌声は、何回聴いても私の胸にジーンとくる。

他にも原爆養護ホームや共同作業所や修学旅行生などとの交流などもしているし、ときには自主コンサートも開催するなど活発な活動を続けている。

「虹のコーラス」代表の大橋京子さんから話を聞いた。

「30代から70代までの30名がメンバーで、毎週水曜日の夕方6時30分から9時30分までと、金曜日の10時から午後1時までを練習に当てています。ハードといえばハードですが、歌の好きな人たちで今年の秋には20周年を記念したコンサートを開きます。

団員の中には2名の被爆者の方もいまして、反戦平和の歌は大切にしています。被爆ピアノと最初に出会ったときは、古いピアノなので一緒に歌うことができるのかと心配しましたが、素敵な音がきちんと出るし、それからというもの側で歌うと気持ちが引き締まりますね」

被爆ピアノを使ったCDが、2006年3月に初めて発売となった。「平和の使者 被爆ピアノの響き―被爆60年を経てー」のタイトルで、そこに収録している「原爆を許すまじ」や「あなたが夜明けをつげる子どもたち」などは、「虹のコーラス」の歌声である。

なお、「ヒロシマ被爆ピアノ物語」を創り演奏した向井さんは、このコーラス部のピアニストでもある。

・  アオギリ平和コンサート

広島市平和公園の原爆資料館の横に被爆アオギリが植わっており、その前で第5回アオギリ平和コンサートが開催となった。8月6日のことで、まだ暑い日差しの続く午後3時からスタートした。日陰にいても額に汗がにじんでくる。チラシには、以下のような案内文が付いていた。

「アオギリの木は、廃墟の中から甦(よみがえ)り、被爆者と私たちに強く生きる力と勇気と希望を与えてくれた。そして今は60周年を過ぎて、平和の大切さが薄れようとしている時代に警笛を鳴らしてくれている。そこで今回は『被爆ピアノ・歌声と響く』をテーマとして、21世紀は平和と希望のある世紀にするために、第5回アオギリ平和コンサートを開きます」

コンサートは矢川さんを含めた実行委員会が主催し、出演者を含めて全員がボランティアでの参加であった。他の市から駆けつけた15名ほどの合唱団もあれば、数名のグループによる歌と演奏や、一人だけによるピアノ演奏などもあった。

野外のため被爆ピアノの場所は、テントの陰にし音程が狂わないようにしていた。時間とともに日差しが変わり、その都度にスタッフの方達がテントを移動させては、被爆ピアノに直射日光が当たらないように工夫していた。周囲の木々からは、無数のセミの鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。

5時30分過ぎになって、「生協ひろしま虹のコーラス」が登場した。「ヒロシマ被爆ピアノ物語」に続き、「青い空は」「ねがい」「いとし子よ」などの歌声が響いた。団員の1人である藤田眞さんが、作詞作曲した「アオギリ」も登場した。

「青い空晴れ渡り アオギリは豊かにのびていた

 人々は(幸せな)明日を信じ (ささやかな)何時か来る平和を夢に見ていた・・」

被爆二世でもある藤田さんは、矢川さんに頼まれて被爆ピアノをテーマにした「わたしはピアノ」も作詞作曲している。

これからも全国各地で被爆ピアノは、反核平和を求める響きを、人々の心の奥底にまできっと届けることだろう。


被爆ピアノ問合せ先

矢川ピアノ工房 代表 矢川光則
〒731-3161 広島市安佐南区沼田町伴309
TEL・FAX 共通. 082-848-9533・

「被爆ピアノ・翼をひろげる会」 ホームページ. http://www.hibakup.com 

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