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歴史は安全運転のバックミラー
-東京大空襲・戦災資料センターから平和の発信―
(財)生協総合研究所研究員 西村一郎
・ 下町を歩く
地下鉄の半蔵門線に乗り住吉駅で下車する。まだ比較的新しく明るい駅から地上に出て、広い通りに沿って南方向に歩く。すぐ小名木川へと出る。江戸時代に隅田川と旧中川を結び、東西にまっすぐ流れる運河で、かつては千葉で造った塩などを江戸に運んだ。橋をこえて東西に走る清洲橋通りを左折する。通りに面して小さな店などが並び、道端にはアロエなどの鉢が置いてある。
今度は南北に流れている横十間川をこえる。川幅は狭く、両岸が緑の濃い公園となり、小さな手漕ぎのボートが何艘か浮かび、親子や若い二人連れがのんびりと遊んでいた。都内でも水路の多い地域であることがわかる。
のどかに見えるこの地域一帯は、59年前の敗戦の年に一面の焼け野原となり、いまだに亡くなった人が正確にわからない場所でもある。木造の橋が焼け落ち、水路が逃げる人々の行く手をふさいだ。
死者11万5000人以上、負傷者15万人、損害を受けた家屋約85万戸、罹災者約310万人との推定数字がある。この膨大な被害は、1942年(昭和17年)4月から敗戦までの、東京における100回以上にも及ぶアメリカ軍による空襲のもたらしたものである。その中でも最大の被害は、1945年(昭和20年)3月10日の大空襲であった。わずか2時間半の空襲で、約10万人もが殺されている。
アメリカ軍の当時の爆撃報告書には、3月10日の空襲の前と後に撮った空中写真がある。空襲前の写真では、雪でも降ったかのように建物は白く写っているが、後の写真では大半が黒くなり、運河や通りの位置から地域を推測することができた。
民家の間を走る通りに面して、目指す茶色の3階建ての東京大空襲・戦災資料センターがある。入り口の右側にある小さな広場には、「戦火の下で」と題して、幼子にほほを当て、ひしっと抱きしめている目を閉じた若い母親の像がある。左側にある大きな卵の前に少女と向日葵(ひまわり)が立つ「子どもの平和像」は、平和を願う中・高校生が中心となって1000万円を集めて造ったものである。
その左隣には小さなお稲荷さんがあり、このあたりがかつては由緒ある下町であったことを物語っている。
・沢山の生々しい資料が
入り口で協力費300円を払って氏名を記帳し、階段を使ってまずは3階の天井が高い資料・展示保管室へ入る。
最初に、「戦争の中の生と死 東京大空襲―炎と恐怖の記録―」と書いてある。かつて東京だけでなく、日本の各地を空襲した爆撃機B29の2mもある大きな模型や、これは実際に使われた茶色に錆びた焼夷弾が2本展示してある。その横には『東京大空襲・戦災誌』の全5巻が飾ってある。それぞれが1000ページをこえる大著で、1,2巻は体験記、3巻は軍や政府の公式記録、4巻は報道や著作の記録、5巻は空襲下の都民生活に関する記録となっている。5巻の各目次を見ただけでも、よくもこれだけの資料を集めて整理して出版できたものだと驚く。これが出版された後で、各地の空襲を記録する動きがいくつも具体化した。
道順に沿って歩く。「太平洋戦争はじまる」のコーナーでは、裕仁と大きく署名した開戦の勅書や「新高山登レ」の電文のコピーなどがある。パールハーバーを奇襲した後で、日本は天皇の名において開戦を通告した。このため国際法上は、相手からどのような被害をもたらされても損害賠償を請求できない。何重にも罪のある開戦の勅書である。
「本土初空襲/米軍機16機の奇襲攻撃」や「防空 それから2年半、東京に空襲はなかった」と続くコーナーには、軍や政府のいくつもの資料や写真などを展示してある。防衛食器や布製防毒マスクもある。
そして次が「B29爆撃機、姿を現わす」となる。北九州や沖縄、さらには銀座などの空襲写真があり、焼夷弾投下の図解も展示してある。
いよいよ「3月10日東京大空襲と山の手・城南空襲・八王子空襲まで」のコーナーとなり、ここの展示品がやはり一番多い。B29の投下したM69油脂焼夷弾筒、マグネシウム焼夷弾、機関砲弾、電波をかく乱させるアルミ箔片がある。木と紙と土でできた日本の家屋をアメリカで再現し、効果的な破壊を狙って開発した兵器である。
色あせた当時の個人の日記や、戦災死する前夜の手紙がある。そして焼け焦げた防空頭巾、幼児の着物、溶けたガラスの食器、溶けた瓦と皿の塊などが展示してある。陶器の焼成温度は約1230度なので、瓦の溶け具合などからかなりの高温であったことがわかる。水が出なくなっても、握ったまま亡くなった隊員の手にあった消火用ホースがある。かってに持ち場を離れることは厳しく禁止されていたので、逃げ遅れて亡くなった人が少なくないそうだ。
二つのグループに分かれた雛人形がある。一群は戦火で焼けただれて塗料がはがれ、土の色が変わっているものもある。他方は、防空壕に移して火の影響を受けなかった人形であった。
「全国空襲/大都市から中小都市へ」のコーナーでは、アメリカ軍の爆撃報告書や、ある新聞に特集となった「日本大空襲の全容」が見開きで展示してある。空襲の概要が日本地図の上に記載され、北海道から沖縄まで、全ての地域で空襲を受けていることが一目瞭然である。
そして「終戦・戦後/終戦という名の敗戦」のコーナーにつながり、細長い部屋を一巡する。
階段横の6畳ほどの部屋は、「子どもたちと戦争」のコーナーとなっている。国民学校や陸軍少年飛行兵の様子を知ることができる。直接の戦火による子どもの被害だけでなく、疎開先のコタツにおける一酸化中毒で死亡するとか、雪下ろしで事故に巻き込まれた子どももいる。そして当時の厚生省は、1948年(昭和23年)2月現在で戦争孤児が12万3512人と発表している。実際はもっと多かったのではないだろうか。
2階は会議室となっており、椅子やテーブルを並べてある。ここでは東京大空襲に関する貴重なビデオを見たり、被災者の手記を朗読する倍賞千恵子さんの声を聞くことができる。
また部屋の周囲には大小の戦災の絵が飾ってある。井上俊郎作の「蒼茫・焼死体の山」は、小山のように黒い死体が重なり合っている。上野公園で目撃した場面とのことである。井上有一の書である「噫横川国民学校」の写しも飾ってある。一字毎に筆を叩きつけるようにして書き、判読は難しいが、その気迫にただ圧倒される。作者は宿直の教師として、1000名もの住民が焼け死ぬのを見たときの怒りや恐怖を、紙に全身でぶつけている。
帝都防衛部隊で焼死体の処理にあたった「おのざわさんいち」さんは、迫り来る大きな炎と、顔に赤い斑点の火傷を負った防空頭巾の困り果てた少女の「炎の夜」を描いた。
部屋の後方には、不発弾の突き抜けた黒いピアノが置いてある。鍵盤を叩くと、音程の狂った高い音が出て、一瞬悲鳴のように聞こえた。
1階は半分ほどが資料室となり、関連する蔵書が棚に並んでいる。
公的な資金はいっさい受けずに、これだけのものをよく展示していると驚いた。資料の持っている意味からすれば施設は狭いが、展示品の一つひとつからその歴史的価値を充分に読み取ることができる。
・平和の語り部
ある日の昼過ぎに、佐渡島から小学校の修学旅行生約30名が、先生に引率されてセンターにやってきた。2階の会議室で東京大空襲の惨事をまずビデオで鑑賞し、その後で体験者の二瓶治代(にへい はるよ)さんから話を聞いた。明るい色のスーツを着た二瓶さんは、優しく微笑みながら話をすすめていった。
「ビデオはいかがでしたか。すごいことでしたが、全て本当のことです。B29は、橋を壊してから人口密度の高いこの下町のまわりに炎の壁を造り、そして人々が逃げることのできないようにしてから、沢山の焼夷弾を落としていったのです。
空襲のあった日は、寒くて風の強い夜でした。その時8歳の私は、この近くに両親を含めて5人家族で住んでいました。窓ガラスに黒い紙を貼り、電球の笠には幕を垂らして明かりが外に漏れないようにしていたのです」
ゆっくりとした二瓶さんの声が、子どもたちに伝わっていく。じっと前を見つめている男の子もいれば、小さなノートに鉛筆で一所懸命にメモしている女の子もいた。
二瓶さんの語りは続く。空襲が始まり、体の具合が悪く兵隊に行くことのできなかった父親が、いつもと様子が違うので外に逃げろと言い、家族は寒い外に出る。近くの防空壕に家族で入るが、穴の上にトタンを乗せただけで、ここも危ないと判断した父親に従ってまた外に出る。
しかし、あたりはすでに火の海となっていた。火の粉が空高く舞い、家が燃え、さらに焼夷弾が降り注ぐ。その中を家族で必死に走った。
「背中へ負んぶした赤ちゃんに、火の付いたお母さんがいました。直撃弾を受け吹き飛ばされた人もいます。燃え始めた防空頭巾やリュックサックを、必死で捨てようとしている子どもたちもいました。
道路で立ち往生している荷馬車にも出会いました。積んでいる荷物に火が付き、やがて馬の尾から燃え出して、最後には手綱を握っている大人までも燃えてしまったのですよ」
想像を絶するとはこのことだろう。頭巾に火の付いた少女の二瓶さんは、それを外そうとしたときに突風で飛ばされてしまう。無我夢中で火の中を逃げ、どうにかして道に出た彼女は、今度は沢山の人たちの下敷きになってしまう。
やっと朝になり、引き出してくれる人がいて二瓶さんは外に出ることができた。上に折り重なっている人たちは、真っ黒い炭のように焼けていた。道には死体がすき間のないほど転がり、足を出すのにも苦労した。できるだけ人を踏まないように、つま先で歩いていったほどである。家の近くの防空壕に戻ると、逃げなかった近所の家族全員は死んでいた。
「赤ちゃんや子どもにまったく罪はありませんが、この空襲での犠牲はたいへん多いのです。一緒にいたお父さんやお母さんが、わずか2時間後に亡くなった子どもがいます。もしくは、子どもは田舎に疎開していて無事でしたが、両親は東京で死んだ人もいるのです。
みなさんと同じ齢の子どもが、お父さんもお母さんも突然いなくなった中で、いったいどのようにして生きていけばよいのでしょうか。
絶対に戦争をしてはいけません。幸なことに日本は、これまで59年間は戦争がありませんでした。でも、今この時に、イラクでは戦火が続き、私が経験したことと同じようにおびえている子どもが沢山いるのです」
東京大空襲を過去に留めるのでなく、今の世界に引きつけて二瓶さんの熱い話は終わった。
話の後で児童たちは、2階に展示してある絵や資料などを見てまわった。壁の一角に飾ってある絵は、隅田川や近代的なビルが建ち並ぶ上に、青空をバックに白い雲が浮かび、その雲から沢山の子どもたちが下界をのぞいている。どの子も頭の上に白い輪が乗っていた。その「江東・弥生の空 もっと生きていたかった」という絵の前に立った小学生たちに、二瓶さんは優しく話し掛けていた。
「大好きだったお友達の正男ちゃんや久代ちゃんも、あの日に空襲で亡くなりました。この絵のように天国から今でも見てくれている気がして、いつもここに立つと私は胸が熱くなるのよ」
二瓶さんの気持ちを理解したのか、静かにうなづく子もいた。
・ 早乙女勝元館長の願い
ここの館長は、下町の作家として著名な早乙女勝元さんである。かつて岩波新書から出した『東京大空襲』はミリオンセラーとなり、平和を愛する人々に今も読み継がれている。72歳になる早乙女さんは、著書がすでに130冊をこえても次の執筆の準備をされているし、さらにセンターの館長だけでなく、全国各地へ講演で飛び回る多忙な方でもある。
ご自宅の近くの駅で待ち合わせをさせてもらった。あいにく台風が接近して大雨となったが、きちんと約束の時間に来てくれた。この3月に取材先のキューバで買ったという黒いベレー帽に、ショルダーバックという姿である。これまでにいくつかの本や講演録でイメージしていた早乙女さんそのもである。
駅前の喫茶店で話を聞くことにする。顔なじみの店の女性と気さくに挨拶をされていた。
まずはセンターのできるまでをうかがった。
「東京大空襲を体験したのは、私が12歳のときです。一生忘れることのできないあの晩のいくつもの場面を、子どもの一途な目で見ることができ、まるで一眼レフで撮った写真のように克明に記憶しています。広島や長崎の被爆に匹敵するほどの大惨事であるにもかかわらず、ほとんど記録がありませんでした。そこで1970年に『東京空襲を記録する会』を立ち上げ、沢山の方たちの協力を得て資料集めをすすめてきました。
出来事は60年過ぎると歴史になると言われています。東京大空襲は来年になると60年ですから、もうすぐ歴史として残るわけです。つまり、歴史としての評価に耐えることのできる資料の発掘や整理が必要です」
早乙女さんのそのときの体験は、いくつかの著書に細かく書いてある。たとえば岩波ジュニア新書『東京が燃えた日』では、恐怖の夜の10場面をリアルに表現している。その中の一つの場面である。
「だれか、歩道のきわに火の塊となって、両手両足を振りながらコマのようにまわっている。断末魔の人は、火をふりきろうと必死にもがいて暴れる。めらめらシュウシュウというすさまじい響きは、焼夷弾の飛沫を全面にあびて燃焼するそれだ」
そのすぐ横には、赤い防空頭巾を被った小さな子どもが立っていたとも書いてある。信じられない光景が目前にある驚きと同時に、ほんの少しの差で自分も同じ状況になっていたかもわからないという恐怖が、少年の早乙女さんを襲ったことだろう。このときの原体験が、平和を求めるために本を書き、かつセンターを造る原動力となった。
「東京空襲を記録する会」は、関連する貴重な資料を長年にわたっていくつも集めた。30年近くかかり、ダンボール箱は40以上にもなった。並行して、東京都に展示する施設の建設を要請する。当初は革新の美濃部都知事が、記念館の建設を約束してくれた。しかし、1999年に計画は凍結となり、やがて東京都による建設は不可能となった。
「都に預けていた沢山の資料をつき返されてしまいました。しかたがなく、高い倉庫料を1年間払いましたよ。貴重な資料をどうするのか悩みました。そのままでは埋もれたままになります。
そこで関わりのあった財団法人・政治経済研究所の方に相談すると、ぜひ独自にやろうということになりました。あわせてある高齢の罹災者の方が、平和のためであれば持っている土地を寄贈してくれることになったのです。
後は展示する施設を建てることです。そのための資金集めをスタートさせました」
同じ志を持つ人たちが集まれば、どこかにきっと解決の糸口は見えてくるものだ。
・4000人もの資金協力で
当初は5000万円の予算で建物を計画した。しかし、図面を広げて打ち合わせをするたびに、少しずつ面積を広げていった。図面だけを見ていると、かなり広いように錯覚してしまう。たまたま早乙女さんの息子さんが住んでいたマンションと同じ広さであったので、立体的な空間をイメージすることができ、これではいくらなんでも狭いと判断して広げることにしたそうだ。
最終的に1億円の規模となり、多くの著名人が応援してくれたこともあり、約4000名もの協力者により2年間かかって目標額は達成した。
あわせて難航したのは施設の名称である。当初は、「平和のための戦争・戦災資料センター」にする予定であった。ところがこの名称に対して、右翼などからの攻撃がかかった。歯切れの良い早乙女さんの話は続く。
「ある雑誌の表紙まで使い、『早乙女一派の企み』として非難されましてね。歴史の事実を正面から見つめることが、いわゆる自虐史観だという一部の人たちもいます。
広島、長崎、沖縄には、戦争の被害や平和を考える公的な施設はありますが、それに近い被害を受けた東京大空襲だけがありません。
しかし、平和のための戦争・戦災と表現すると、あれもこれも含めることになり、ピントがぼやけてしまって目的が何であるのかはっきりしません。そこで東京大空襲・戦災資料センターと名称を改め、募金活動も上向きになっていくことができました」
それでも期日まで順調に資金が集まったわけではない。7000万円集まった段階で、見切り発車して建設に着手し、2002年の3月10日の開設にやっとこぎつけた。市民の力だけで建設し、小さな施設ではあるが、大きな意味のあるセンターである。
それにしても不景気といわれている中で、よく1億円ものカンパを独自に集めたものである。中には一人で500万円の寄付をされた高齢の女性もいて、早乙女さんたちは驚いた。申し出の手紙には、本人の体が不自由なことも書いてあり、無理はしないで欲しいと早乙女さんはその女性に会って話した。
すると「一人なので年金でもくらすことができます」、「私は寄付することに決めています」と明言されたので、その好意をありがたくいただくことにした。他にも100万円のカンパの方も何人かいて、センター建設への支持の強さを物語っている。
東京大空襲を体験した人は、なぜ自分だけが生き延びたとのかと自問し、また体験していない人でも、限られた現実の中で何らかの行動をしたいと願って、それぞれの思いを込めて募金している。こうした4000名もの名前は、一人ひとりを銅版のプレートに刻んで建物前の壁面に展示してある。
・ センターを現在や未来につなげて
センターには、連日のようにいろいろな人が見学に訪れる。孫を連れてきて、家では話すことのできない空襲の辛い体験をセンターで語る高齢者もいる。生協組合員の親子グループもあれば、修学旅行としてやってくる小学生や中学生もいる。社会学を学んでいる学生たちのグループでは、「東京で2時間余りに10万人も死んだなんて嘘みたい」とか、「東京大空襲のことは教科書に載っていたが、試験に出ることの少ない現代史なので教わっていない」などと感想を述べている。
こうした中で館長の早乙女さんは、センターの今日的な意味を、静かではあるがハッキリと強調された。
「ここに展示してある東京大空襲の貴重な資料は、想像力を豊かにすれば、アフガニスタンやイラクの現代の戦争へとつなげることができます。60年近い過去のことではありますが、過去形に留めるべきではありませんね。過去は、現在や未来のために必要であり、例えて言えば安全に車を前進させるため、後方を確認するバックミラーのような役割りを果たしているのですよ。
そのため文字になった体験だけでなく、絵や写真もあれば、いろいろな遺品なども貴重な記録として価値があります。ところでこうしたものが、各個人の体験としてバラバラに存在している限りでは点でしかありません。点と点を結んで線とし、非人間的な戦争のメカニズムを浮き彫りにすることが大切ですね」
重要な視点である。戦争の資料をただ陳列し、勇ましいとか、可愛そうにという感情のレベルに留めるのでなく、メカニズムという戦争の本質に迫らなければ、同じ過ちを繰り返す危険性がある。
・若者や生協への期待
センターの入り口に「子どもの平和像」を設置した高校生たちは、現在は大学生などになって平和活動を続けている。そうした若者たちに、ぜひ東京大空襲を学んでもらい、次の世代に対する平和の語り部となってもらいたいと早乙女さんは願っている。
「今、何人かの語り部の方がセンターで活躍されています。大切な身内の方を亡くされたり、幼いときにたまたま命拾いした方です。そうした人たちから、ぜひ戦後生まれの人たちへのバトンタッチを少しずつしていきたいものですね。
私たちのセンターを維持するため組織を作り、年会費で一口2000円をお願いしています。いくらボランティアで支えても、かなりの維持費が必要です。3000人以上の会員が欲しいのですが、現在は半分程度ですから運営はまだまだ大変です。ぜひ次世代を担う若い人たちに、一人でも多く会員に加わってもらいたいものです」
早乙女さんは、生協とのつながりも長い。ユーモアを交えて平和について分かりやすく話すことが好評で、かつては全国各地の地域生協で講演などをされてきた。最近は医療生協との関わりが深く、例えば日生協医療部会が発行している「虹のブックレット」の最新号No64は、早乙女さんが著した「心に平和のとりでをー私の初心、そして明日へー」である。東京大空襲を体験した初心だけでなく、「軍隊をすてた国」のコスタリカのことや、さらには戦後すぐに当時の文部省が出した「あたらしい憲法のはなし」が、資料として全文が入っているのでお薦めの本である。
最後に、早乙女さんから生協への熱い期待を語っていただいた。
「平和はくらしの基礎ですし、命の土台は平和です。このためくらしや命を守る生協は、平和を大切にしないと存在する価値がなくなります。例えば毎年の平和行進や広島や長崎における『虹のひろば』の取り組みなど、沢山の生協組合員さんが集まっています。
でも、ややもするとその場での感激で終わってしまいます。地域に戻り日々のくらしの中で、平和につながる憲法や教育基本法の考えを活かすことが大切です。日本全体や地域の動きへの目配りをする社会的な感覚と、きっかけは外からの誘いであっても主体的な力量をつけていくことですね。大切なことを学び知って、自分の生き方として何をするのかです。
最初の1人の動きがなければ、何事もゼロのままで進展はありえません。生協に関わっている一人ひとりが、たとえ小さくても平和だけでなく、多くの課題の一歩を踏み出すことが、これまでになく求められているのではないでしょうか」
一人の一歩を踏み出すことがまず何よりも大切であり、そして志を共にする仲間の輪を広げることの素晴らしさを、早乙女さんは強調されていた。毎年のように自殺者が3万人をこえ、国家財政が破綻するかもしれないという大変な世の中ではあるが、他方で市民の力は強くなり、夢を実現する条件も成熟しつつあることを東京大空襲・戦災資料センターは物語っている。
有事立法が成立し、世界に誇る日本国憲法や教育基本法の理念が形骸化され、あれよあれよと言う間に、「戦争をしない国」から「戦争ができる国」になってしまった。アメリカ軍による東京大空襲は、沖縄・広島・長崎へと続き、さらには朝鮮戦争の済州島における虐殺、ベトナム戦争におけるソンミ村事件、近くはパナマ戦争における住民への襲撃、そしてイラクのファルージャにおける子どもや女性の殺傷へとつながっている。
東京大空襲・戦災資料センターからの大切な平和のメッセージは、決して過去のもでなく今日的な意味をもって発信が続いている。
連絡先
東京大空襲・戦災資料センター
〒136-0073 東京都江東区北砂1丁目5―4
電話 03-5857-5631
