住所:茨城県取手市井野4417-1
e-mail:ichiro429nishimura@msn.com
Blog:西村一郎活動日誌

当サイトは私西村一郎のルポ及び著作物、ボランティア活動等の紹介ページです

針路は非核の海

  -50周年目の第五福竜丸― 

2004年6月7日

                     (財)生協総合研究所 研究員 西村一郎

・  水爆実験の生き証人を訪ね

東京駅から千葉に向かう京葉線に乗り、10分で新木場の駅に着く。かつての高度経済成長の頃にこのあたりにあった遠浅の海岸は、東京のゴミの埋立地として利用され、異臭やハエの大量発生などによって社会問題となったこともある。それが今は広大な緑の公園となり、熱帯植物園や広い運動場などもあり、人々が散歩やサイクリングなどで楽しむことのできる憩いの場となっている。海に接していることもあり、ヨットハーバーも一角にある。やっとのことで、名前の「夢の島」にふさわしい景観を見せるようになった。

駅前からは、各種の施設へ道しるべが案内してくれる。第五福竜丸の表示もその中にある。「かもめ橋」という陸橋を渡り公園の中を案内にそって10分ほど歩くと、緑の中に焦げ茶色した屋根の尖った独特の建物が見えてくる。

私が小学生の頃だったので、もう40年ほど前のことである。今は亡き宇野重吉さんや乙羽信子さんたちが演じる映画「第五福竜丸」を、クラスメートと学校で観たことがあった。政治的なことはまるで分からなかったが、水爆によって殺された船乗りの悲しみや怒りはモノクロの映像から感じ、子どもながらに怖くなったものである。

ゆるやかな階段を下りて施設の正面に立つと、鋭角に空高くそびえる窓ガラスに第五福竜丸展示館と白い文字で書いてある。入口の小さな部屋の正面に、かつて太平洋で何回となくたなびいたであろう第五福竜丸の大漁旗のレプリカが飾ってある。透明なガラスの奥には、第五福竜丸の本体が雄々しく横たわっている。

玄関を入ると、そこは第五福竜丸の船尾である。大きな木製の古びた舵取りがあり、錆びたスクリューが目の前にある。船底や強度の必要な一部には鉄を使って補強しているが、あくまでも木造船である。よくぞこれだけのか弱い船で、はるか太平洋赤道海域まで出かけ、それも不幸にして水爆の死の灰を浴びてでも、どうにか日本に帰ってくることができたものだと驚く。台風並の暴風雨になれば20mほどの波が押し寄せる中を、23名の乗組員が協力して乗り越えてきた。

第五福竜丸は幾多の変遷をし、最終的に夢の島であるゴミの埋立地の海に沈められようとした。そのとき港湾労働組合の人たちの目にとまり、また一市民の新聞への投書が多くの人たちの共感を得て、やっと第五福竜丸は水爆の生き証人として保存されることになった。

船体に沿って左舷からまわる。横の壁面には、ビキニの死の灰から第五福竜丸で使った色あせたノートなどが展示してある。23人の船員が療養している写真もあり、当初は問題の深刻さがまだわからないのか若い人たちに笑顔が見える。それも久保山愛吉さんの死去により一変する。奥さんを中心にして3人の幼い娘たちが目に涙を一杯ため、父親の遺影を持っている姿が痛々しい。非条理な現実に対し、全身で抗議している。

 ビキニ環礁における被爆のカラー写真も生々しい。そこでは核兵器の影響が、決して過去の話でなく、今も世界の各地で続いていることを物語っている。久保山さんが遺言として残した、「原水爆の犠牲はわたしを最後にしてほしい」という切なる願いは、残念ながらまだ達成されていない。

舳先に立つ。見上げる場所に錨を下ろす穴が船体の左右に開き、それがあたかも下界を見下ろす神の目のように見える。

 右舷に回ると、関連する書籍の販売コーナーや映像室などもあり、より詳しく第五福竜丸と事件の問う本質に対する答えを望む人に参考となる。そこには鉄製の階段があり、第五福竜丸の全貌を上から眺めることができる。被爆の後で水産大学の練習船となったために、デッキの一部は改修されているが、それでも第五福竜丸であることにかわりはない。今年で50年になる歴史の証人が横たわっている。

・  核は今の問題

展示館の横にある小さな事務所で、事務局長の安田和也さんから話を聞く。口ひげをはやし一見すると堅いイメージであるが、話し方はソフトである。偶然にも焼津港所属の第五福竜丸が誕生した1953年(昭和28年)に生まれているので、同じ時代を50年余生きてきた。第五福竜丸が被爆をしたのは翌54年の3月1日であった。

「ここの展示館には、年間で11万から12万人ほどの来館者があり、その内で小・中・高校生の団体見学は500校近くで約4万人ほどです。その多くは修学旅行や社会科見学の生徒で、他にも昨年は約30の生協から若いお母さんたちが見学に来てくれました。

各地に歴史系の資料館や博物館はいくつもありますが、ここの入館者数は多い方です。それでも1億2000万人の全国民からすると点のようなものです。それにビキニ事件以後の世代が7割近くになるわけで、『第五福竜丸を知らない世代に伝えたい』をキーワードに、そしてこの事件がけっして過去の出来事ではなく、いまの世界の問題と重ね合わせて考えていただきたいという発信をつづけることがここの役割です」

被爆といえば、誰もが広島や長崎を思い浮かべることだろう。それに比べると第五福竜丸のことはあまり知られていない。しかし、被害を与えたものが原爆でなくより強力な水爆であったことや、世界に与えた影響などについて広島や長崎とまた異なった意味があると安田さんは強調する。

「第五福竜丸には23人が乗り組んでいて、全員が死の灰を浴びました。中には何かわからずに口へ入れて調べた人もいます。すでに12名が肝臓ガンなどで亡くなり、生存している人たちも何らかの肝臓障害を持っています。事件の治療の輸血でC型肝炎のウィルスが入ったこともありますが、水爆の影響によるものです。

ところで第五福竜丸の乗組員は、被爆者としての認定を国から今も受けていません。事件のあった翌年の1955年の1月に、国際的な世論の広がりを恐れたアメリカ政府は、わずかの見舞金を払って日本政府と合意文書を交わし政治決着をつけたのです」

実は、水爆による被害を受けたのは第五福竜丸だけではない。水爆の実験で汚染されたいわゆる「原子マグロ」は、日本の各港で検査されて深く埋めるなどの処分を受けた。該当したマグロ船は実に856隻にもなる。それも1954年の12月までの調査であり、翌年以降について当時の厚生省は調べることを中止している。これもアメリカ政府の意向に沿うものだろう。さらに驚くことに、放射能による汚染を調査したのは、マグロなどの魚だけで乗組員については調べていない。数ヵ月も遠洋を航海する乗組員は、捕った魚を食べる。仮に1000隻で1隻に20名の船員がいたとすると、2万人以上の人が放射能で汚染された魚を何日も食べ、健康に障害の出ている可能性がある。

ところで第五福竜丸は、アメリカ政府の指定した危険区域外で操業していた。他の実験のときにも死の灰を直接被った日本の漁船があるし、海流や気流に乗って広範囲に放射能が拡散している。例えば海流では、ビキニのある南太平洋から西に流れ、フィリピン近くに達すると、今度は黒潮に乗って日本の近くまで放射能で汚染された魚がやってきた。

 「第五福竜丸の事件は、アメリカが事実を隠そうとした中で、水爆の恐ろしさを全世界へ伝えました。このときの水爆は、これまでにアメリカが実施した最大規模の核実験で、実に15メガトンです。ピンとこないと思いますが、第二次世界大戦で広島と長崎に落とした原爆を含めて世界中で使用した爆弾や砲弾の合計が3メガトンです。つまり1発の水爆で、第二次世界大戦5回分の破壊力を持っているのです。

 最近アメリカ政府は、小型の核兵器の開発を強調しています。それでも威力は広島原爆の3分の1ですから、大勢の人々を殺し、多大な環境破壊をもたらすことにかわりはありませんね」

 ビキニの水爆は、人類が核兵器で滅亡する危険性や、計り知れない環境破壊をもたらす可能性を人々に教えた。残念ながらその危険性や可能性は、50年たっても解決されず今も続いている。このため安田さんは、第五福竜丸が過去の証人としてだけでなく、今日の平和や反核や戦争反対を考える上でも貴重であると強調していた。

・  市民の支えが

第五福竜丸展示館は都立となっているが、その運営には一般の市民も深く関わっている。そもそも展示館が建設される前に、水爆の生き証人を私たち市民の手で守ろうという動きが長くあった。その運動に参加した一人、青木佳子(あおき よしこ)さんに館内で会う。

「1967年のことです。この近くの小学校で教えていた私は、ある記事でここのゴミの中に第五福竜丸が捨てられていることを知り驚きました。仕事の帰りに自転車を飛ばして、初めてこの船を見ることができました。白いペンキがたくさんはがれて、黒い木肌が見えている痛々しい姿を、私は決して忘れることができません。

仲間と一緒に船の保存を駅頭で訴えたことや、大雨の後には船内に溜まった水をバケツで汲み出したこともあれば、子どもも含めて第五福竜丸を美しくする集いを開いたこともあります」

第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが、全国からの励ましにもかかわらず死の灰を浴びてから半年後の1954年(昭和29年)9月に亡くなる。核兵器反対の声が各地でより高まり、翌55年には初の原水爆禁止世界大会が広島で開催され、また世界の著名な科学者たちが、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表し、核兵器がもたらす惨禍について人類が理性的に判断するよう訴えていた。そうした核兵器を許さない世論の高揚もあって、第五福竜丸を保存しようという運動が、少しずつではあるが東京の保存委員会を中心にして広がっていく。

保存会の代表委員の一人でもある美濃部亮吉都知事は、「私もひとこと」として次のような訴え文を発表した。

「第五福竜丸保存の運動は、私たち日本国民にとって、すぐれて今日的な意味をもつものであり、人類の未来のための普遍的な運動であると、私は信じます。(略)」

こうして運動が広がり、以下のような年度を経て第五福竜丸の保存が具体化していく。

1070年(昭和45年):船名を『はやぶさ丸』から『第五福竜丸』に書き戻す。

1971年(昭和46年):梅雨によって船が沈没寸前となる。

1972年(昭和47年):船体を陸上に固定し、その後、柵で囲む。

1973年(昭和48年):船体管理と都との折衝のため財団法人第五福竜丸平和協会が設立される。船体を都に寄贈し、都が展示館を建設することが決まる。

1975年(昭和50年):展示館の建設工事に着工。

第五福竜丸は、全長29m、幅6m、マストの高さは15mもある。海から陸に引き上げた後で、近くにこの船がスッポリと入る大きな三角形の建物を造り、そこに第五福竜丸を引き込んで固定した。陸といってもゴミの埋立地である。そこに木造とはいえ140t級の船を設置したのだから、当初は平らな床の一部が何回も波打ってしまい、その都度補修した。

こうして1976年(昭和51年)6月に都立第五福竜丸展示館がオープンした。その間の長い保存運動にずっと関わってきた青木さんは、教師を停年になった今はボランティアのガイドとして活躍されている。小学生から大人までのグループに応じて言葉を選び、第五福竜丸について分かりやすく説明する。20分から30分程度で第五福竜丸を一周し、歴史や展示物などの解説をする。さらに時間があれば、建物の正面の広場に案内し、久保山愛吉記念碑、愛吉・すずのバラやマグロ塚、そして展示してあるエンジンについてもガイドする。

「第五福竜丸は、事件の後で東京水産大の練習船となり、名前も『はやぶさ丸』となりました。それが1967年には老朽化して解体業者のものとなり、まだ使うことのできる250馬力のエンジンを外して貨物船に移したのです。ところがその運搬船が、三重県の沖で座礁して沈没してしまいました。

このエンジンをぜひ引き上げて船と一緒に保存しようという運動がおこり、やっと1996年に海から出すことができました。翌年には『第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ   

和歌山県民運動』が活動し、また受け入れる東京では31の団体が関わって『第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ 都民運動』が発足しました。どちらにも生協さんが熱心に関わっていただき、1998にやっとエンジンを東京に運ぶことができ、ここに設置しました」

6本のシリンダーが上に着いているエンジンは、奥行き1.1m、幅5.6m、高さ2.5mもある。約30年を経て海中から引き上げたときは、かなりの部分は茶色に錆びていたが、その後で多くの保存を願う人の手で錆び落としや防腐剤の塗布がなされ、今は黒一色となっている。6本の大きなシリンダーは、正面から見ると上部に2つの穴が左右にあり、下部には縦に長方形の空洞がある。まるで人の顔のようなそれは、久保山愛吉さんたち亡くなった12名の無念の声を発しているようでもあった。

ところで陸揚げされたエンジンは、大型トラックで東京に向かう途中で、大阪、奈良、京都、滋賀、岐阜、愛知、静岡、神奈川の各集会に寄り、核兵器反対の世論作りや募金集めなどにも貢献した。ここでも各地の生協の仲間がたくさんの役割りを果たしている。

今も青木さんは、週に1回だが片道2時間以上もかけて第五福竜丸展示館にやってきてガイドをしている。何がそこまでさせているのだろうか。青木さんの平和にこだわる原点をたずねた。

「1945年5月29日の横浜空襲における体験です。子どもの私は、防空壕に避難していましたが、煙が入ってきて外に出ました。火の海の中を必死で逃げ、死んだ子どもを背負った女性を見たり、ころがっている死体を踏まないように注意して歩いたものです。一生忘れることのできない風景でした。

ところで軍人の父は戦死し、毎日のくらしに困っていましたが、やがてお嫁に行くときの費用とするため、母親は私が産まれてから毎月1円を貯金していました。そうしてやっと蓄えたお金は、戦争が終わってしまうと1日の食費にもならないほどの値打ちしかありませんでした。

こうした体験から私は、戦争とはひどいもので、平和でなければ何もできないことを肝に銘じたのです」

敗戦になるまで青木さんは、大人や新聞の言う「日本は絶対戦争に勝つ」を信じて疑わなかった。ところが戦争に負け、大人や新聞はそれまでとまったく逆のことまで言い出した。そのため青木さんは、人間不信や新聞不信となり、要は自分がしっかりした物の見方を持たなければならないことを痛感する。

そこで教師となった青木さんは、物事を全面的に見ることのできる子どもを育てることに努力してきた。例えば茶筒を子どもに見せ、真横からは長方形になるし、真上からは円形になるが、実物はどちらでもなく円柱であることを分からせる。一面からだけでなく、いかに物事を総合的につかむことが重要か教えてきた。その願いは、第五福竜丸をガイドする今も大切にしている。

・それぞれの願いを胸に

青木さんのようなボランティアのガイドは、現在10名が登録して活躍されている。元教員の人や被爆者もおり、みな反核平和を愛する人たちである。

第五福竜丸の元乗組員の一人、被災当時は20歳の若い冷凍士として乗り込んだ大石又七さんも、体験者としてしばしば展示館で証言をしている。取材で第五福竜丸を訪ねた日に大石さんのガイドがあるとのことであったが、修学旅行生が泊まっているホテルで事前に説明したそうで会うことができなかった。ここでは大石さんの手記『第五福竜丸とともにー被爆者から21世紀の君たちへー』(川崎昭一郎監修 新科学出版社)から引用させていただく。

14歳から海で働き始めた大石さんは、最初の5年間はカツオの一本釣りで一人前の漁師となった。次に乗ったのがマグロ漁の第五福竜丸である。ビキニで死の灰を浴びたときは、放射能の知識はまったくなく、雪かと思って唇のまわりの白い粉をなめたが、じゃりじゃりして雪でないことがわかったそうである。

焼津に帰ってから全員で東京の病院に入って治療にあたった。亡くなった久保山さん以外の22名は、どうにか白血球の減少が止まり、大石さんを含めて退院する。しかし、故郷では第五福竜丸のためにマグロなどが売れなくなったなどという心無い風評が流れ、隠れて道を歩くような状態が続いた。

そうした雰囲気に居たたまれなくなった大石さんは、やがて知り合いのいない東京へ出て、被爆したことをひたすら隠して黙々と働いた。そうした大石さんが長い沈黙を破り、最初に人前で体験したことを話したのは1983年のことであった。大石さんは訴えている。

「被爆してから50年ちかくがたちましたので、その間にはいろいろなことがありました。しかし、この『ビキニ事件』が持っている重み、『事件』が教えていることの大切さを、私もだんだんとわかってきたというのが、本当のところです。知っている私が、言わなくてはいけないことなのだ、という気持ちに変わってきたのです。(略)

私は、若い人たちにはぜひ、こうした核兵器の恐ろしさを知っていただきたいのです。そして同時に、どうやったらなくしていけるのか、考え、どんな小さなことでもいいですから、行動してほしいと思います。

2つの世界大戦を体験した20世紀。20世紀を核兵器のない世紀にするため第五福竜丸とともに、新たな航海をしようではありませんか」

6歳のとき広島で被爆した米内達成(よない たつなり)さんは、週3回はボランティアとしてガイドをしている。父の仕事で山梨県の甲府にいたが、空襲にあって住む家がなくなり、母の実家がある広島市へ7月に移った。8月6日の朝は、食事をとった後で空襲警報が消えたので、家の外に出て横の路地で遊んでいた。

「Bが来た!」

友達の声で空を見上げたとき、路地の上の青空をB29が横切った。その直後に近くの家屋と一緒に吹き飛ばされた。爆心から1.5kmの地点であった。幸い米内さんはかすり傷ですんだが、お母さんと妹二人が亡くなった。

「私たちと第五福竜丸の乗組員の人たちも同じ被爆者です。各地でたくさんの人たちが参加する原水爆禁止運動があって、私たちは大変励まされています。

ところで私たちの被爆問題は、決して過去の出来事で終わるものではありません。湾岸戦争やイラクでは、放射能で汚染する劣化ウラン弾が多数使用され、50年前にビキニで行なった水爆実験の核兵器開発が今日につながっているのです」

ボランティアの方々は、それぞれの熱い願いを胸にして、第五福竜丸のガイドを今も続けている。

・  見学者の声

第五福竜丸展示館を訪れた人たちは、歴史の証人に直接触れて、各々の思いを胸にしている。そうした一部が、館内にあるノートに感想文として残っている。

「本物の第五福竜丸は、やっぱりすごかった。古びて茶色に変色しているけど、核兵器を否定していることを教えてくれています」(中2女子)

「展示館を訪ねることができてよかった。過去の歴史の1ページと認識していたが、核兵器や大量破壊兵器が話題になっている今、ここに来ることに大きな意味を感じた」(高2男子)

「マーシャルの写真で指が6本ある赤ちゃんや、手首から先が生まれたときからなかった子を見て驚いた。こんなことが起こらない平和な世界になってほしいです」(中3女子)

小さな櫂による一掻きかも知れないが、第五福竜丸は確実に航路を進めている。

・  50年目の航路

2004年に50周年を迎えた第五福竜丸展示館では、いくつものイベントを企画している。2月には常設展示をリニュアルし、また地方の人たちのために次の場所で巡回展を開催する。8月には高知市の自由民権記念館で、11月には京都市の立命館大学国際平和ミュージアムで、さらに広島・長崎でも開催できないかと相談をすすめている。

また第五福竜丸展示館では、次のような企画が年末まで続く。

岡本太郎『明日の神話』の第五福竜丸展  4月3日~11日

 原水爆の作品「明日の神話」には、マグロを引く第五福竜丸が描かれている。

マーシャル諸島の人びとの50年展    5月15日~6月27日

 今日なお続くマーシャルの人びとの被害を伝え、告発する。

現代アート展「崩れゆく歴史・・・時、空間、場所」 7月16日~8月15日

 戦争の記憶、ホロコーストなど人間と歴史を描く。

特別展示―久保山愛吉さんへの手紙  9月23日~10月17日

 第五福竜丸の乗組員に宛てて全国から寄せられたお見舞いの手紙の特別展示会。

マーシャル被曝50年と地球   11月20日~2005年1月23日

 マーシャルと世界の核被害を追い続けるフォト・ジャーナリストの写真展。

こうした50周年を記念したプロジェクトについて、以下のようなよびかけ文が出ている。

「この一木造小漁船が遭遇した悲劇は、放射能による地球環境全体に及ぶ汚染被害、さらに、万一、核兵器が戦争で大量に使用されるならば、人類の絶滅さえもしかねないという危険を、初めて全世界の人々の前に示し。警鐘を鳴らしました。(略)

日本が受けた水爆実験の被害についても、その全容が必ずしも明らかにされたとはいえません。マーシャル諸島の人々をはじめ、世界における核兵器開発と核実験による被害、被害者の苦しみは、いまも続いています。(略)

年間十数万人の来館者、とくに、その多数を占める小・中・高校生たちに、第五福竜丸は、『原水爆の被害を繰り返してはならない。核兵器のない未来へ』のメッセージを発信し続けています。核問題は、21世紀に入った今日においても、今この瞬間も、目の離せない問題です。(略)

第五福竜丸は航海中です。

原水爆のない未来の創造に寄与するために、このプロジェクトへのご賛同とご参加をよびかけるものです」

展示館の管理運営にあたる(財)第五福竜丸平和協会は、今年3月に「ビキニ水爆実験被災50周年記念・図録 写真でたどる第五福竜丸」(A4版104ページ 発売:平和のアトリエ 頒価2800円)を発売し、その普及に努め、学校や図書館などでの活用をよびかけている。

核兵器のない平和な世の中に向けて進む第五福竜丸と共に、針路を同じくする無数の漕ぎ手が、今も世界中で求められている。

連絡先 第五福竜丸展示館(9:30-16:00 月曜休館、祝日の場合は火曜振替休館)

    〒136-0081 東京東京都江東区夢の島3-2

    電話 03-3521-8494  ホームページ http://d5f.org

| HOME | 食育(論文) | 平和・環境(論文) | 街づくり・その他(論文) |
HOMEへ戻る